旅日記 ―塩飽(しわく)水軍の島―
瀬戸に浮かぶその島は、丸亀から船で30分ほどのところにある。視野いっぱいに展開する瀬戸大橋の全貌を、デッキから眺めているうちに、フェリーは本島(ほんじま)に着いた。28の島々からなる塩飽(しわく)諸島の中心となる島だ。
「塩飽」という名の由来については、この辺りの潮流が複雑で「潮がわく」ように流れているからとか、古くから製塩が盛んで「藻塩焼く」からきている、などといわれている。この本島は塩飽水軍の本拠地として海運業で栄え、卓越した技術を持つ船大工や、操船の腕が確かな水主(かこ)たちが数多くいた。信長や秀吉、それに家康も水軍の力を大いに活用し、島の船方衆に朱印状を授けて自治権を認めた。島の伝統は明治まで続き、咸臨丸の乗組員50名のうち35名までがこの塩飽の出身者である。
港で自転車を借り、島の散策に出かける。15分ほど走り、坂道を上りきったところで視界が開け、古い町並みが目に飛び込んできた。笠島と呼ばれる集落だ。江戸後期に建てられた家屋も残っている。腕が自慢の船大工が建てた家だけあって、巧みな細工が随所に見られる。町を外敵から守るため、通りをT字型に交差させたり曲げたりして、見通しがきかないように工夫されている。
どこか懐かしさを感じながら、町を巡っていて気づいた。妻籠宿など古い町並みは各地で見てきたが、何かが違う。人にほとんど出会わないのである。平日の朝とはいえ、観光客はおろか住民の姿もみえない。隔離された島ということもあろうが、過疎化が進んで若者が居なくなったのだと思われる。また、伝統的建物の保存地区に選定されているため、家を勝手に立て替えることもできず、住人にとっては意外と住みづらいのかもしれない。
集落を去りかけたとき、どこからともなく老婆が一人、手押し車に身をゆだねるようにして現れた。こちらを見つめている。そのおばあさんに見送られるようにして、自転車にまたがり港へと向かった。