89年の生涯より(37)忘れ得ぬ人々(八) 三人目のフリーダ
先月(十月)の例会で、平尾さんが「二人のフリーダ」につき発表されたのに続き、私は「三人目のフリーダ」について報告したい。
一九四四年夏、ジャワ・バンドン市に偕行社がオープンした。偕行社とは陸軍将校のクラブであり、レストラン、物品販売所、図書室などを運営していた。
このレストランのウエイトレスはオランダ・インドネシアの混血の乙女たちで占められていた。彼女たちはお客の席に侍り、会話の相手をした。彼女たちの職場は限られていたので、志願者には事欠かず、西洋人そっくりの美人が多かった。
フリーダもその一人、父はドイツ人で、厳しく育てられたと言う。私が行くと同僚の女性たちは、「フリーダ!チンタ ダタン(恋人が来たよ)」と叫んだが、握手以上のことは何もしていなかった。ただ、蓄音機の針を工面してやった記憶がある。
四五年夏、敗戦の日、旅団司令部で将校を対象にした「インドネシア語検閲(試験)」があり、私が優勝、賞品として服地を頂戴したが、これを使える日がいつ来るのか皆目見当がつかない。むしろ、今後、度重なるであろう移動のお荷物になりかねない。早く処分したいと思っていた時、フリーダの弟が「少年抑留所」(十二歳以上の少年を家族より引き離し収容した)より釈放され、帰宅したとの話を聞いた。私は服地を持参、収容所での苦難をねぎらい、「貴君の新人生出発への贈り物」として贈呈、非常に喜ばれた。
秋が深まり、進駐英軍への補給に多忙を極めていた頃、フリーダより「誕生日パーテイ招待状」が届いた。その夕、出向いてみると、客は私だけ。薄暗い電灯のもとでの甘い音楽と酒、いつもは清楚なフリーダは艶めかしい女に変わっていた。一―二時間のダンスの後、「まだ、よいでしょう。」と止めるのを振り切って隊に帰った。散発的に銃声も聞こえた晩、若し、ずるずると留まっていたら、どんなことになっていたか。時に、甘く、ほろ苦いノスタルジャとして蘇るフリーダの思い出である。
(二八・一一・二一一一)