作品の閲覧

「800字文学館」

ニイタカヤマノボレ一二〇八

志村 良知

 真珠湾攻撃の成功の為には、気象において二つの条件を満たすことが必須であった。一つは単冠湾からハワイ沖まで艦隊が随伴輸送船からの洋上補給を受けられる程度に静穏な日が適宜あること、もう一つは攻撃時の真珠湾上空が晴れている事である。

 冬の北太平洋は荒れやすい。開戦日が12月8日に決められたのも、これより遅くなると荒天で空母機動部隊の艦隊行動ができなくなる可能性が高くなるからだ、という説がある。もう一つの要件、真珠湾の天気には航空攻撃の成否がかかっていた。
 当時の雷撃、爆撃は全て目視、手動であった。岸壁に横付け二列に係留されている戦艦群のうち列の内側の艦は、魚雷は届かないので、九七式艦上攻撃機の徹甲爆弾による高高度爆撃で攻撃する計画であった。戦艦の甲板装甲を破り、艦内部で徹甲爆弾を爆発させて沈める為に必要な運動エネルギーを得られる高度は3千メートル以上と計算されていた。そして、命中させるには3千メートルの上空から戦艦が見える必要があった。
 戦争と気象は密接で、近代日本の気象観測の歴史も帝国陸海軍による気象観測から始まった。さらに飛行機が登場し戦場の主役になると、あらゆる作戦は守るも攻めるも天気予報が最重要情報となっていった。ノルマンディ上陸作戦は、悪天候の中で出された「天気は好転する」という予報によってアイゼンハワーが決断し18万人が動いた。

 日本時間12月8日に真珠湾を攻撃せよ、という大本営命令は12月2日に出され、変更される事無しに実行された。淵田攻撃隊長の自伝によると真珠湾上空が晴れている事は、出撃後雲の中を飛びながらラジオのホノルル放送で知ったという。
 冬の真珠湾の天気は必ずしも良くない。その日、計画通りの攻撃が可能な天気になるか否かは、完全なギャンブルであったのだ。山本長官渾身の大作戦も最後の詰めの部分は、後に陸海に繰り返される事となる「天祐を確信し……」、の最初の例であった。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧