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「800字文学館」

女犯戒(にょぼんかい)

池田 隆

 泉鏡花の「高野聖」は女犯戒を主題にした傑作である。
 高野山の若い旅僧が飛騨の奥深い山中で蛭や蛇の大群に襲われ、這々の体で一軒の山家に辿りつく。妖艶なる女主人が僧を迎え入れ、水浴びに近くの渓へ案内し、自らも着衣を脱ぎ、僧の背中を流すなど妖しく誘惑する。僧は必死に女犯戒を守り、一泊して麓の里へ向うが、山家に引き返し彼女と暮らしたいと心が揺らぐ。
 その時、出会った一人の住人から彼女の数奇な経歴を聞く。山家に来た男を次々と魅惑しては、相手が自分に靡くと蟇蛙や蝙蝠、猿などに変える魔力をもつ女とのこと。たしかに昨晩もそのような獣が彼女に付きまとっていた。僧は逃げるように山を下る。

 これほどの奇譚ではないが、西国三十三所巡礼中のことである。
 私は菅笠に白装束姿で一人もくもくと歩いていた。昼にはまだ間がある頃、宇治の市街に差し掛かった、静かで人通りは少ない。すると私の背後から若い二人の女性の話声が聞こえてきた。歩調は私と違わず、追い抜くことも遠ざかることもない。
 親友同士らしい。ひとりが先週結婚したばかりの様子。昨晩から今朝にかけての閨での出来事を嬉しそうに話しだす。他方は未婚らしい。真面目な声で質問をあびせ掛ける。対する答はダンスや体操の身振りを説明するように微に入り、細にわたる。その明朗な声は屈託なく、些かの淫靡さもない。
 数メートル先を歩く巡礼の老人など、男の範疇に入っていないようだ。耳を欹てると、内容は渡辺淳一の小説よりはよほど生々しい。振り向いて彼女らの顔を見たい衝動に駆られるが、野卑な助平爺と見られるのも癪の種。聞こえぬふりして歩み続けると、二人の声が急に途絶えた。横筋に折れたらしい。
 もしかすると私の信心を確かめるために弁天様と吉祥天が二人に化身したのかな。私が振り向いていれば、彼女たちは女夜叉に変身したことだろう。
 危なかった!

 世の中にたえて女のなかりせば、男のこころはのどけからまし(太田南畝)

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