二・二六事件の跡を歩く
二・二六事件の跡を歩く、という催しに参加した。一日で全てを歩くのは無理なので、バスで移動しつつ要所を歩くという趣旨である。
東京ミッドタウン裏の檜町公園から氷川神社を経て、赤坂福吉町に出る栗原中尉の首相官邸襲撃隊の径路、左門町から路地に入り斎藤内大臣私邸を襲撃して、学習院初等科脇を抜け、四谷見附に至る坂井中尉隊の径路、などをガイドに着いて速足で歩いた。いずれもアップダウンが激しい細い道で、息が切れ汗が滲む。襲撃隊の移動は完全武装での行軍であった為、宮家の脇や警察署や交番がある大きな通りを避け、できるだけ目立たない道を移動したのだという。未明には雪は降っていなかったとはいえ、23日に降った雪が20センチは残っていたであろう。背嚢、小銃や機関銃などで一人40キロにもなったという荷物を持って真っ暗な雪道を急いだ兵隊たちの事を思う。彼らは事件後懲罰的に最激戦地を転戦させられる事になるのである。
二・二六事件の遺構はほとんど残っておらず、蹶起部隊を出した三つの連隊、彼らが占拠した首相官邸、陸軍省、警視庁、宿舎に使った料亭幸楽や山王ホテルなどは当時の建物の跡かたも無い。襲撃された要人邸も場所は特定できるものの、建築物展示施設に移設された高橋邸以外に建物は残っていない。戒厳司令部として使われ、遺構で唯一現役だった九段会館は、東日本大震災で受けた被害で営業を止め、建物は近々に解体される運命にあるらしい。
事件後、軍法会議で20名が死刑判決を受け銃殺された。処刑場は現在の渋谷税務署・法務局がある場所で、一角に慰霊の観音像がある。私はその前を通るバスに良く乗るのであるが、不覚にも今回知らされるまでその存在に全く気が付かなかった。
青年将校は何故蹶起したのかについてはいまだに議論が分かれている。国を思う彼らの心に邪心はなかったであろう。しかし事件は、軍が政治を思いのままにする契機となったのは間違いない。