『居酒屋の三十郎』
のれんをくぐり引き戸を開けると、「らっしゃい」、と低く野太いよく通る声に迎えられる。変形くの字に曲ったカウンター十数席、マスター一人のもつ焼居酒屋だ。この地で三十数年、もはや地元でも老舗である。
私は密かに彼を三十郎と名付けている。入江たか子と伊藤雄之助の好演が忘れられない、黒澤映画の主役の名前だ。
六時前なのに客は四、五人入っている。空席に座り、「ワイン」と言う。受け皿付きのコップに一升瓶から甲州赤ワインが注がれる。マスターの美学なのか、ワインはコップから溢れない。受け皿に溜まった液体を戻して得した気分になるあの楽しみはない。
そしてレバ塩二本と言う(昔はレバチョイと言っていた。これは生レバの両面を軽く火で炙る手のかかる品なのだが、今はレバの生食が禁止状態でメニューから消えた)。
ワインを飲み、レバーに溶きガラシをチョイと付け食しつつ、ガツと子袋を塩で頼む。コップのワインが半分になった頃焼き上がる。飲むペースは大体串三本にコップ一杯、ワインでも熱燗でも焼酎でも三杯でおつもりにするのがここでの私の飲み方。次に軟骨とタン、これも塩、そしてワインのお代わり。
客のほとんどは一人客。「マスターお代わりとシロたれ二本」「あいよ」「煮込み」「あいよ」「らっしゃい」「おあいそ」の声に、赤く燃えた備長炭にホルモンの肉汁とたれが滴り、ジュワッと煙立つ破裂音が店内の音響だ。同時に香ばしい爆弾が、呑み助達の鼻腔を突き刺す。
しゃべくりも音楽も無い独特の静寂空間で、客は経を読む修行僧のように一心不乱に食って飲む。いつのまにか満席、寡黙なマスターは一人ひとりに目配りし、焼いて切って洗ってついで、開けて閉めて勘定する。
その無駄の無い所作に三十郎と名付けた所以だ。串を頬張りおつもりを思案、今日は寒いので燗酒にする。燗はやかんに湯煎でつけてくれる。ネギマをたれで頼んだ。
居酒屋の名は、灰火もつ焼き、『椿』である。
(企業OBペンクラブ 800文字文学館 投稿作品)