クラリネット協奏曲イ長調 K622
モーツァルトのクラリネット協奏曲の演奏を生で聴くという四十年来の夢がかなった。
この曲を知るきっかけは、高校の頃見た『幸福』というフランス映画だった。指物師と女郵便局員の不倫が主題の映画で、フランス人の日常生活の描写、幾つかのベッドシーン、「印象派の絵のよう」と評された色彩と、バックに流れる音楽が記憶に残った。
その曲がモーツァルトのクラリネット五重奏曲である事、そして良く似たクラリネット協奏曲がある事をまもなく知った。どちらも聴く機会が多くない曲なのでラジオなどで流れると胸ときめいた。
オーディオとレコードにお金を使えるようになった時、この二曲の手に入る限りのレコードを集め、スコアを見ながら聴きこんだ。スピーカーからでは聴き取れないニュアンスを何万円もする高級ヘッドフォンで息を詰めて聴いた。そしてクラリネット・ソロがアルフレート・プリンツ、ベーム指揮のウィーン・フィルハーモニーの演奏で第二楽章を聴いた時、これで俺の葬式に流してもらう音楽は決まったと思った。モーツァルト、死まであと数カ月、天上に遊ぶ白鳥の歌である。
今回の演奏会は指揮が常任、ソロ奏者は首席クラリネットという内輪の組み合わせであった。席は三列目正面というかぶりつき、弦楽器奏者の弓の糸のほつれまで見える席だった。クラネットも音色のみならず、奏者の息遣い、足を踏み替える音、楽器のメカニズムが出す機械音まで聴こえそうであった。レコードであんなに色々な演奏を繰り返し聴き、一時はスコアを暗譜していた曲が、生身の音楽家により生の音になって聞こえてくる。時間に止まって欲しかった。
鳴りやまない拍手に応えて、次のプログラムがあるにもかかわらず、『故郷』を思わせるアドリブ的なフレーズを吹き、それに弦の首席奏者達が応じてクラリネット五重奏曲の第二楽章が始まった。演奏は数分間だけであったが、熱演を讃えあう音楽の同志たちの羨ましい光景だった。