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「800字文学館」

宗教と道徳

稲宮 健一

 病理が解明される以前、疫病の蔓延や個人の罹病は人知の及ばぬ災いであり、平癒を神仏に祈念するのが常だった。地震、台風、旱魃、などの天災も同様で、苦しい時の神頼みということわざの通りである。

 十九世紀末、新渡戸稲造がベルギーで、日本では宗教教育を行なっているかと問われ、「ない」と答えると、宗教教育なくして、道徳をどのように授けるかと問われた。その答えとして「武士道」を執筆したと述べている。「武士道」は不文律の武士の掟を表したものである。今でもこの掟は日本社会の底流に流れている。必ずしも道徳は宗教の裏づけを必要としない主張である。西欧の社会では神様が見ているから道徳が生きている。このたがが外れると、放縦になるということか。

 病気の治癒、天災からの予防、道徳の規範は宗教から離れたが、では神仏の意義が無くなったか、いや宗教はもっと深い意味を持つ。確かに現代では宗教の重みが軽くなってきた。しかし、今でも宗教は生を受けてから亡くなるまでの心の支えになっている。詰まるところ、人生は決して理屈で解明できないものであるからだ。禅の立場で、鈴木大拙は智を捨て、霊性的に世の中を見るべきで、そう見られると真の見方ができると述べている。それは何も禅の極意のみならず、キリスト教とて同じだとも言っている。禅におけるひたむきな座禅、浄土宗諸宗の声明、段々高鳴る法華太鼓、キリスト教における荘厳なゴシック建築の教会の威圧感と賛美歌、そして原始宗教におけるシャーマンの祈祷など、皆霊的な世界に没入させるいざないなのかもしれない。

 どの宗派であっても霊的な領域に達することで法悦が得られることであろう。宗派が異なっていても、教義や修行を積んで霊的な領域に達せられる宗教活動は同じだ。しかるに問題は集団になると排他的になることだ。今でも、西欧とアラブ諸国はこの関係になる。他との間に寛容さがなければお互いに存在し得ない。

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