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「800字文学館」

春歌考

志村 良知

 春、桜が咲き、プロ野球も開幕した。ヤクルト・スワローズの応援歌『東京音頭』を聞くと今でも、♪踊り踊るなら…ではなく、♪春は良い良い…と口ずさんでしまう。

 学生時代に所属したギター部では素面でも酒を飲んでもとにかく歌った。素面の時は女子も大勢いたので、自前に編曲したギター伴奏による混声四部位で上品に合唱した。それが学内の集会所などを借りての男だけのコンパでは各種安酒の瓶を並べ、歌って踊ってのどんちゃん騒ぎになった。
 伴奏も部の備品の安物ギターを掻き鳴らすことになる。ギターというのは手錬にかかると、どんな曲でも即興で伴奏できるし、テンポは勿論、キー変更も自由自在である。
 歌うのはおのずと春歌になっていく。騒乱のコンパに備えた新ネタを披露したりするとやんやの喝采を受ける。即席の振りで踊り狂うと安酒がぐるぐる回る。明日の事は考えない若さの発散の場であった。

 会社に入って数年は社員旅行の宴会などではかすかに春歌の香りがしたが、間もなく絶えてしまった。春歌を歌うのに必要な、若さと勢いがある新入社員が全く春歌を知らないという事態になってきたからである。年寄りばかりが歌って若者は謹聴するのみではさまにならない。90年代に入ると春歌は絶滅し、社員旅行もなくなった。

 春歌を絶滅させたのは、日本経済の成長とカラオケである。学生のバイト先が増え、小金を持つようになって、酒を飲むのは居酒屋やスナックとなれば、べろんべろんに酔っての放歌高吟はできない。歌にしても、アカペラでキーもテンポも自由な手拍子で歌うのは廃れ、一人づつマイクを持ってカラオケで歌うというスタイルになった。これではたとえ春歌を繰り出しても面白くもおかしくもない。かくして、記録に残してではなく、先輩から後輩へ口伝で伝承されてきた日本の伝統宴会芸の一つが追憶の彼方に消えてしまったのである。

 ♪はあー、春は良い良い、ちょいと桜の下で……
 ♪花をかきわけ…

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