陸奥按察使兼鎮守府将軍大伴家持
万葉集は、因幡守大伴家持が任地で新年を祝って詠んだ歌で終わっている。
奈良朝の名門貴族の家に生まれた家持は、若い時から越中守、因幡守などの要職を歴任し、参議、中納言にまで上りつめた。
同時に歌人として活躍し、万葉集には最も多い473首が収録され、万葉集の編纂者の一人と目されている。
42才の時この賀歌を詠んで以降歌作をピタリとやめ、「歌わぬ家持」になった。以後政治に専念し、晩年にはある謀反事件に連座し一旦解任されたものの復活し、延暦元年(782)65歳の時、陸奥按察使兼鎮守府将軍に任ぜられた。多賀城(宮城県)に赴いた。
当時の東北地方は蝦夷勢力との対立が続いており、朝廷は多賀城に大規模な征討軍を派遣していた。家持が在任した期間は大きな戦乱はなく、戦乱で疲弊した陸奥の復興につとめるなど大過なく過ごした。
続日本紀の延暦4年(785)8月28日の条に「中納言従三位大伴宿祢家持死」とあり、家持の死が記録されている。
家持は、死後に発覚した桓武天皇の寵臣藤原種継の暗殺事件に関係したとされ、処罰を受けた。死後の埋葬も許されず官職氏名剥奪という扱いだった。
死んだ場所も多賀城内なのか奈良の自邸なのか説が分かれているなど政治家・官人家持については不明な点が多い。
死後20年に赦され名誉が回復されたが、毀誉褒貶の多い政治家だった。
多賀城は、仙台の東北10㎞、松島丘陵の南端にある。八世紀半ばに陸奥の国府・鎮守府として設けられ、大宰府と並んで国防上の重要な官庁だった。
戦後の発掘調査で伽藍、築地塀、門の配置、政庁の建物などが確認され、平城京に匹敵する規模の建物があったと推定されている。
家持が執務したとされる政庁の跡は小高い丘の上にあり、東西100mぐらいの正方形の基檀が残っている。
多賀城市は東日本大震災で市域の三割が津波の被害を受けたが、丘陵地にある史跡多賀城址は浸水を免れた。
昭和60年(1985)、家持没後1200年を記念して市が建てた歌碑が城址近くにある。
(12・4・25)