カナリヤ隊60年前の記憶
1952年私は新潟県新井のカーバイド工場に就職した。石灰石、水力電気、石炭とすべて国内産原料で、戦後復興の最重要産業だった。ただ米国の自動車産業と共に急成長する石油化学との競争力が課題だった。私たちは先輩の残した日本の物造り技術を継ぎ、情熱を傾け国産密閉炉技術を完成した。
今年6月新聞は南魚沼の掘削爆発事故を、ガス測定を一因として報じた。密閉炉で回収利用する一酸化炭素は、無色無臭、空気より軽いがよく混合し分離も出来ない。濃度10万分の1以上で血中酸素結合中毒と恐ろしい。工場では故障修理・破損時の防護策が重要であり、一般に検知器が使われる。
私は生理反応ゆえ、検知精度に信頼できるカナリヤ検出に踏み切った。新井の小鳥屋の老練親爺に協力を依頼すると、カナリヤは虚弱だけど相互の感度差が少ないと引き受けてくれた。
小鳥との親密な協力を大前提として、親爺は、「一籠に常時同じ二羽を」、「巡回時籠は携行」、「夫々の鳥の生態を記録」、「巡回者の耳鳴り、目眩などのメモ」とかなり細かく五訓を定めた。女性社員は事務室と飼育室を一体化し、『鳥も人も一つの輪』」を合唱した。この体制は漸次調整し、私の在勤中物陰で中毒に苦しむ一名救出以外、一名の一酸化炭素死者もなかった。
1964年震度7の新潟地震で、ビルが左右に倒れた液状化により封止堰から逸水(当局は不可抗力と認定)、貯蔵ガスの60%放出を目にし駆けつけた私は腰を抜かした。まず、風による拡散を確認、早速カナリヤ隊を出動、近隣部落に広く安全放送し喝采を受けた。
今月新潟県警より電話があり、何で知ったかカナリヤ隊の報告書が欲しいと要請があり、早速記憶を呼び覚まし記録を作成、「鳥と人との交わり」を強調した報告書を当時の若い班長に持たせて南魚沼に派遣した。