原子力行政を批判し続けた男 その一
福島原発の事故について、当初政府は「事業所以外への大きなリスクを伴わない」レベル4だと発表した。それを、四月十二日に最悪のレベル7へと引き上げた。私はこの時点でも、お人好しに、事故のレベルの判定は難しいのだろうと考えていた。
原発事故について考えてみると、日本人がお人好しだということが災いしたと思う。社会の至る所に、職人肌で責任感のある人々がいるのが日本だ。そうであるから、つい自分の専門外は専門家を信頼して任せてしまう。
また、私は自分が怠慢であったと反省している。理科系のことはどうせ理解できないからと、新聞でも原子炉の事故の記事は読み飛ばしていた。しかし、重要なのは科学的側面よりも、管理の問題とか隠蔽の体質だった。
これを痛感したのが、武谷三男の『原子力発電』だ。1976年の著書だが、いやだからこそ衝撃的だった。著者は、「原子力との取り組みの苦闘の歴史が最近ほとんど忘れられている」と嘆いている。本を読むと、原発推進派の手口が昔から同じなのに驚く。
日本初の原子炉(東海発電所)は、イギリス製で実績が未知数であったにもかかわらず、購入前の1956年時点では発電原価が1kW時あたり二円五十二銭で火力と競争できると宣伝された。しかし三年後には二倍となった。「原子力は安い」という宣伝は我々にも刷り込まれたが、実は地元対策費や宣伝費が計上されていなかったことは事故後に明らかになった。
怒りを覚えるのは、1956年発足した原子力委員会の委員長に正力松太郎が就任したことだ。警察官僚で、米騒動鎮圧や関東大震災で組織的な「朝鮮人暴動説」を流布した人物だ。正力は日米動力協定や原発構想を強力に押し、科技庁長官となって去ったが、委員だった湯川秀樹博士は「無軌道ぶりに愛想をつかし」一年で辞任してしまう。どのような「悪貨」を据えれば「良貨」が駆逐できるのか、計算された人事と勘ぐってしまうのは私だけだろうか。
2012・6・13