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「800字文学館」

雑賀・沙也可一族

池田 隆

 十年ほど前に街道歩きの仲間であった雑賀さんから聞いた話である。彼は退職後に和歌山の実家に伝わる古文書の解読に頑張っているという。司馬遼太郎の小説「尻喰らえ孫市」を思い出し、主人公の雑賀孫市の話題を持ち出してみた。
 すると彼は雑賀総本家の末裔で、日本全国に散らばった雑賀姓の人たちを束ねる日本雑賀一族会の会長とのこと。司馬遼太郎も彼のご実父を訪ね、当家の資料を調査していたそうだ。
 小説によると雑賀孫市は戦国末期にいち早く鉄砲技術を導入し、紀ノ川の河口周辺で勢力を張った雑賀衆の頭目である。信長の石山本願寺攻めに対して激しく抵抗する。読んだ時にはその痛快さが堪らなかった。

 雑賀さんは私と一緒に歩きながら、「史実については諸説あるが、…」と断りながらも雑賀一族の後日譚を語ってくれた。それは司馬遼太郎の小説以 上に興味深い。
 信長の滅後、小牧・長久手の戦いで雑賀一族などの紀州勢は家康方につき秀吉を大いに悩ます。それに怒った秀吉は徹底した紀州攻めを行う。その結果、雑賀一族は秀吉の傘下に入るが、苛酷な事後処置に強い恨みを抱く。
 文禄の役で雑賀一族は加藤清正の軍に加わり、鉄砲技術を持たない朝鮮勢を一気に攻立てる立役者となった。しかし秀吉に強い恨みをもつ雑賀一族の一部が休戦期間中に秘かに寝返り、相手に鉄砲技術を教えた。交渉決裂で再出兵となった慶長の役では朝鮮勢も鉄砲で応戦し、今度は秀吉軍も苦戦を強いられた。
 その時に朝鮮側に鉄砲技術を教えた人物は「沙也可(サヤカ)」と伝えられる。「サイガ」が訛ったのであろう。彼の子孫は大邱市近郊の友鹿洞(ウロクトン)村に住みつき、救国者の末裔として周囲から称えられてきた。
 「今でも日本の雑賀一族と韓国の沙也可一族は親密に交流している。日韓ワールドカップ共同開催に合わせ一層交流を深める計画だ」と雑賀さんは張切っていた。私は「血と恨みは国よりも強し」と思った次第である。

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