保科の遊女宿
鎌倉幕府が編纂した史書吾妻鏡に「二品(頼朝)鎌倉の三浦義澄の邸に渡御、御酒宴あり、折柄信濃の国保科宿(高井郡にあり)の遊女の長者、訴訟の事に依りて参住す。其の女を召し出し、郢(えい)曲を聞し召すと云々」という記述がある。文治3年(1186)2月25日の条。
壇ノ浦で平家を滅亡させ、守護地頭を置くなど支配体制を築きつつあった頼朝が、一夜、側近の武将の家で酒宴を催した。その宴席に訴え事で鎌倉に来ていた信濃国保科の遊女宿の長者(女性)を呼び、はやり歌を謡わせ、興じたのである。
このころ荘園での貢物未納、武士の乱暴などの訴訟事件が数多く鎌倉に持ち込まれ、頼朝は手際よく裁決し、下(くだ)し文を発している。
保科の遊女宿から出された訴訟の内容は分からないが、訴えの当事者が裁定者の宴会に出て接待供応をする――今では考えられないことが公然と行われ、記碌されているのには驚かされる。裁決の結果は明らかだろう。
保科はどこにあるのだろうか。
『和名抄』に「穂科保之奈」とあり、また当時作成された年貢未納の荘園一覧に「信濃国、保科御厨」と記されているように古くからの郷だった。
現在の長野市若穂保科。市の東南方向、犀川と千曲川の合流点から東方約4km、菅平高原から流れる保科川の扇状地に拓けた田園地帯。住宅地にもなっている。
集落を古道が走っている。善光寺から菅平、上州大笹宿(嬬恋))を経て関東に通ずる中世には重要な街道だった。
街道に面して清水(せいすい)寺という天平年間に僧行基が開山した伝えられる真言宗の古刹がある。坂上田村麻呂が奉納したと伝えられる鉄鍬形や三重の塔などの礎石が当時の姿をとどめている。現在も参詣者が多い。
今では想像できないがこの小さな邑が、中世には人馬の往来の多い宿場で遊女宿もにぎわっていたのだろう。
市の中心からバスで40分、街並みに街道の面影が残っている。遊女宿のあった場所と推定される一つ、清水寺近くの畠には崩れかけた石垣があった。
(12・8・9)