函館の石川啄木
東京の猛暑を逃れ函館に行ってきた。街をぶらぶら歩いていたら、「啄木没後100年特別企画展」というポスターが目に入ったので早速行ってみた。展示会場の函館文学館は市電の末広町を降りて直ぐ。建物は北海道開拓当時、銀行として使われていたもので、重厚さが残っており文学館としてふさわしい。
「啄木の終焉と妻節子」―病魔と貧困の中、二人は心にしみる文を遺して早世したーがテーマ。展示資料は日記、書簡、節子の書いた金銭出納帳、出版された処女詩集『あこがれ』、処女歌集『一握の砂』、第二歌集『悲しき玩具』など。原稿用紙ではなくノートブックに書かれて、文字は実に綺麗で英文やローマ字で日記を付けていたのには意外だった。
啄木は岩手県の渋民村で生まれ19歳で節子と結婚、21歳の時函館にやって来た。啄木の文才を見込んで、経済的に援助してくれた人物もいた。函館日日新聞の記者や、小学校の代用教員などを勤め、生活が安定したかに見えた。しかし、着任後、4ヶ月目に大火があり街の大半が消失した。新聞社も小学校も焼けて失業した。この時、最初の小説『面影』の原稿も消失したという。こうして啄木の札幌、小樽、釧路へと漂白の旅が始まった。
1年足らずの函館の生活であったが、啄木は多くの函館にちなんだ歌を遺している。
「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」、「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢車の花」、「函館の臥牛の山の半腹の 碑の漢詩も なかば忘れぬ」など。
22歳の時、文学者として生きるため上京する。朝日新聞社に職を得て、家族を呼び寄せ一緒に暮らすことになるが、病魔が啄木を襲い明治45年4月肺結核で亡くなった。26歳2ヶ月の短い生涯だった。妻節子も翌年大正2年5月後を追うように亡くなった。「死ぬときは函館に」という妻宛の遺言で、一家の墓は津軽海峡に面し、函館の街を一望できる立待岬にある。啄木の函館に対する愛着をこの展示会で初めて知った。