宇治田原の歴史・文学散歩
紅葉に彩られた宇治川沿いの国道を車で遡ると、眼下に見えていた急流が天ケ瀬ダムの静かな湖面に変わる。車は湖畔で道を折れ、支流の渓谷の奥へと入って行く。狭いくねくね道が続くが、突然視界が開け、古い民家や茶畑が目に飛び込む。いかにも白洲正子が好む「かくれ里」の風趣である。
此処、宇治田原は京都や奈良に近いが、鉄道も通らず、著名な所でもない。しかし歴史や文学には重要な間道の要所として時折登場するので、ぜひ訪ねたいと思っていた。車を降り、史跡を一つ一つ辿り始める。
壬申の乱の後、天智系の志貴皇子はこの地に蟄居し、文学に明け暮れ、時の来るのを待ち続けた。その思いは没後五十年、息子が光仁天皇となり、満たされる。
「石はしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」は彼がその時を心に期して詠んだ和歌であろう。
百人一首の「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき」も猿丸大夫がこの地で詠んだと伝えられ、猿丸神社が近くに建つ。
平治の乱では清盛の親友である信西が源氏に追われ、ここで首を刎ねられた。その石塚が現存する。
後醍醐天皇は京を追われ、笠置山に拠点を移す前には田原近くの鷲峰山金胎寺を本拠地とする。当時は数十の堂宇を構える修験道のメッカであった。
本能寺の変で領国に逃げ帰る家康には敵方の地域であった。途中に「愛宕大権現」を祀る小さな社が有り、無事幸運を祈願する。その霊験に因み江戸の守り神として芝に愛宕神社を建立した。
十八世紀、田原の湯屋谷では永谷宗園が煎茶の技術を考案し、宇治茶の礎を築く。宗園は今も生家近くで茶祖明神として敬われている。
茶祖神社の脇から急峻で幽玄な鷲峰山へ登る。頂上に立ち、京都市街と琵琶湖、醍醐山、喜撰山、岩間山の山並を遙かに見渡す。
山より下りた里は干し柿作りの真っ盛り、一軒の農家を訪ね、郵送用干柿を注文する。帰宅して宇治田原の印象と干柿をゆっくり味わうのがまた楽しみだ。