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「800字文学館」

熊野の山人(やまびと)

大月 和彦

 30余年も前のことである。当時勤めていた大阪の職場の仲間と紀伊半島の高峰伯母子岳(1334m)から和歌山、奈良県境の護摩壇山(1372m)へ歩く計画を立てた。

 最近世界遺産に登録された熊野街道の一つで、北辺路と呼ばれる古道の一部を通るルート。高野山から熊野本宮を結ぶ山中の参詣道、千m級の峠が三か所もある険しい道だ。通る人は稀で荒れ果てていた。
 奈良県野迫川村の最奥の大股の集落から歩き出す。
 昨年秋の集中豪雨で大きな被害があったと伝えられる集落だ。
 山道を4時間で伯母子小屋に着く。屋根がとばされ柱と壁板が少し残るだけの廃屋で仮眠する。
 翌朝、近くに見える護摩壇山を目指すが、十津川の源流を渡渉する道を間違えたらしく目指す山は一向近くならない。疑問に思いながら歩いているうちに突如、造林作業の飯場が現れた。

 人懐っこそうな60歳ぐらいの小父さんがいて、ここは十津川村神納川上流の通称奥千丈というところだという。とんでもない間違いをしていたのだ。
 引き返すには時間も体力もない。夕方登ってくるというダンプカーを待つ間、小父さんの山の生涯を聞く。

 田辺市に生まれ、11歳の時家出して北海道へ。捜索願いが出されいったん連れ戻されるが、また北海道に行き、きこり稼業に入る。「伐り」が専門だったという。
 釧路で仕事をしていたが、昭和5年ごろ樺太へ渡る。浜頓別から船で2時間の距離だった。
 樺太には白系露人が多く、女性のことは忘れられないという。
 また北海道でも女にもてた。アイヌの女はきれいで、情が深かった。11歳から17歳の頃は全くきれいで可愛らしかったと目を細めて話す。30歳を過ぎると指の間に毛が生えたりしてダメになってしまうとも。

 10年前故郷の田辺に帰り、紀伊山地で飯場の仕事をしている。最近の飯場は、風呂は毎日あるし食事もよくなったし、酒も昔に比べればずっと飲まなくなったと述懐する。
 さすが木の国、和歌山と奈良県、こんな奥深い山で多くの人が山の仕事をしていた。
 林業の不振がずっと続いている。山人達はどうなっているだろうか。

(12・11・26)

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