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「800字文学館」

走る湯の神とはむベぞ言いけらし―伊豆と源家

大月 和彦

 伊豆は源家とゆかりの深い地である。
 平冶の乱で敗れ、清盛の継母池禅尼の命乞いにより一命を取りとめた源頼朝が14歳から34歳まで流人として過ごしたのが伊豆の蛭ヶ島だった。その後、以仁王の平氏討伐の令旨を受け、伊豆を支配していた平兼隆の館を襲撃し、「これ源家平氏を征する最前の一の箭なり」とされる挙兵も伊豆の地だった。

 蛭ヶ島は、江戸時代の学者により伊豆の国市(旧韮山町)韮山駅の東一㎞の地点と比定された。田んぼの中に「蛭島碑記」が建つ小さな史跡公園となっている。平兼隆の館は、伊豆連山の麓の山木の里にあった。閑静な住宅街の坂道を登り切った台地に「兼隆館跡」と読みとれる小さな石碑が横たわっている。

 挙兵後、箱根を越えて東進した頼朝は、小田原市の山地、石橋山で平家に敗れ、湯河原から海路安房へ逃れた。その後上総、下総などの東国の武士を結集し、富士川合戦で平氏軍を破る。鎌倉に拠点を置いた頼朝は、義経や範頼などによって一の谷、屋島、壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させ、武家政権を確立した。

 頼朝は、相模と伊豆を結ぶ重要地な地にあって、供僧房12、修験房7を擁し、多くの知行地を持つ伊豆山神社(走湯山権現)を深く信仰していた。挙兵に際し源家再興を祈願するなど伊豆山神社との関係を吾妻鏡は詳しく記している。
 ずっと続けてきた法華経の転読を挙兵のため中断せざるを得なくなり、思い悩んでいた時、走湯山の高僧は、中断しても仏の思し召しに背くのではないと説き、「関東八州の武士を従えているので平氏退治は容易だ」と激励した。頼朝は世が鎮まったら伊豆蛭ヶ島の地を与えると約束する。

 政権を取った後も深く崇敬し、走湯山権現の僧を源家の氏神鶴岡八幡宮の役僧に登用した。大般若の転読や父義朝の遺骨の埋葬を差配させたり、政子の安産祈願に奉幣使を送るなど精神的な支柱だった。

 頼朝の次男で三代将軍実朝は伊豆山神社へ九回も参詣し、「走る湯の神とはむべぞ言いけらし速き験のあればなりけり」と詠んでいる。

(13・1・30)

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