北の英雄アテルイ
この1月にNHKが時代劇アテルイ伝を放映した。盛岡在住の作家高橋克彦の小説『火怨・北の燿星アテルイ』を脚色したもの。
「水陸万頃にして蝦夷虜存(えみしどもいきながら)へり」と史書に記された、北上川中流域の豊かな地に暮らす蝦夷の集落や鹿を追いサケを獲る牧歌的な生活が描かれている。
八世紀後半、大和朝廷が、征夷の名のもとにこの地に侵攻してきた。
これに敢然と立ち向かったのが蝦夷のリーダーアテルイ(阿弖流為)だった。たび重なる侵攻に対し20数年にわたって抵抗した。
延暦8年(789)、攻め込んできた五万といわれる朝廷軍を北上川東岸で壊滅させた。「巣伏の戦い」である。
一度は大勝したものの、坂上田村麻呂率いる圧倒的な朝廷軍に追い詰められ延暦21年、胆沢城で投降した。長く続いた戦いで村々は焼かれ、犠牲が多くなった住民の苦しみを考えてのことだった。この苦悩する若いリーダーの心中がひしひし伝わってきた。
われわれ蝦夷は何も悪いことをしていないのになぜ攻めてくるのか、この疑問を朝廷に直接ぶつけようとして縛につき、都に送られる。
アテルイに理解と同情を示す田村麻呂は、取り次ごうとするが桓武天皇は聞く耳を持たず、アテルイの首を持ってこいと命令する。蝦夷征伐に執念を燃やした桓武天皇の姿は冷酷だった。田村麻呂の助命嘆願もむなしく河内国椙山で斬首された。
朝廷に反抗したアテルイの名は長い間歴史の表には出ず、一部では悪路王として怖がられていた。手元の『日本史年表』(歴史学研究会編 岩波書店 1890)には、「802年(延暦21)坂上田村麻呂、胆沢城を築く。降伏の蝦夷首長を処刑する」という記述だった。(最新版には「大墓公アテルイ、投降」とアテルイの名が出ている)。
胆沢城址の隣に建つ奥州市埋蔵文化財調査センターでは、アテルイの雄姿をビデオで見せてくれる。また、地元の人たちは巣伏の戦いの年にちなんで「延暦八年の会」を結成し、この英雄の名誉回復に努めている。
(13・2・22)