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「800字文学館」

お忘れもの

中村 晃也

 旅行用の大型トランクの鍵を忘れたことに気が付いたのは、ロンドンのホテルで着替えを出そうとした時であった。
 このトランクの鍵は、四桁の数字を合わせるようなものではなくて、把っ手の左右にある留め金をパチンと締め、その穴に鍵を差し込んで、左または右に捻って止める古い型式のものである。

 出発直前に思いついて、ジョギングシューズを、トランクに入れなおし、鍵をかけたのだが…。
 家に電話すると、眠そうな声の女房は「こんな時間にどうしたの?」と聞いてきた。事情を話すと「鍵は机の上に置いてあったわよ。今から送ろうか?」と能天気な返事が返ってきた。ホテルに頼んで、マサカリでも借りてトランクの腹を掻き切れば、中身は取り出せるが明日からの旅行に差し支える。明朝早くから町で新しいトランクを買うことも難しいし…。

 確かこの鍵の形は、通常のドアキーを少しデフォルメした形だ。まてよ、クリップバインダーの針金を曲げて同じ形にすれば、と夕食を忘れて即席の鍵作りに専念した。数回の調整を経てトランクはめでたく開ける事ができた。それからの一週間は鍵を掛けずに、幅広のベルトをシッカリ巻いて旅行を続けた。

 帰国後、友人にこの失敗談を話した。「年をとると忘れることが多いんだよな」と嘆いたところ「そんなことでガッカリするな」と言って彼の経験談を話してくれた。
 「この年になると用便後にズボンのチャックを上げ忘れることがあるだろ?ある時電車の座席の前に立っていた可愛い女性が、何故か顔を赤らめているんだ。
 気が付くと俺のズボンのチャックが開いたままで、中から白いものがはみ出ている。慌ててズボンに押し込んだところ、その女性はますます顔を赤らめてドアのほうにいってしまった。あとで、その白いものは、彼女が俺の膝の上に落したハンケチだったことが分かったんだ」

「まあ、用便後にチャックを上げ忘れるくらいは可愛いものだ。もっと年をとると用便前にチャックを下げることも忘れるそうだよ」

二十五年 二月

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