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「800字文学館」

「鯨」を待つ

平尾 富男

 岩波ホールが創られた当初から、総支配人を務めた高野悦子さんが亡くなった。創立45周年を迎えた当日の2月9日、享年83。
 1968年の創立に際しては、大内兵衛と野上彌生子が祝辞を述べ、山本安英による夏目漱石の「夢十夜」の朗読でホール開きが行われた。
 その6年後の1974年に、世界の名作映画を日本に紹介するミニシアターの先駆けとなるのが、現在の岩波ホールである。これこそ、「日本映画の母」として知られる川喜多かしこの支援を受けて、高野悦子が始めたものだ。以来四十年近くも、大手興行会社が取り上げない埋もれた名作を、世界中から探し出して上映し続けている。

 1987年にハリウッドで制作された『八月の鯨』(The Whales of August)もその一つ。88年11月から翌89年3月まで岩波ホールで上映されたが、同じ年の6月と10月に、それぞれ2ヶ月ずつ2度も再上映された。創立40周年を迎え、奇しくも高野悦子が亡くなる2013年2月に4度目の上映となる。
 無声映画時代の大女優、映画公開当時すでに91歳となっていたリリアン・ギッシュが妹役で主演。その姉役で出ていた79歳のベティ・デイビスは、この映画が第百回目の主演作品となるが、2年後にはこの世を去る。
 映画の内容は、2人の老姉妹を中心に小さな島の別荘で繰り広げられる淡々とした生活を描いている。これと言った事件が起こる訳でもない。気難し屋で目の悪い姉とその姉をかいがいしく世話する妹の話である。
 2人が若いころ、夏になるとこの島の入り江に鯨が現れた。その昔を思い出して鯨の再来を待ち続けても、一向に戻ってくる気配がない。失われた2人の青春時代のように.……。
 美しい海が眼前に広がる入り江で、寄せては返す波の音を聞きながらのんびりと残された人生を過ごすだけ。そんな老姉妹を描くこの映画が、なぜ88年以来繰り返し4度もこのホールで上映されたのだろう。

 高野悦子も追い求めた「鯨」は戻って来ない。

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