俳優・香川照之と歌舞伎役者・市川中車
香川照之は俳優として、映画化された新田次郎の作品『剣岳・点の記』に出演し好評だった。また、NHKドラマ『坂の上の雲』の正岡子規役などを演じ、その演技力が高く評価され、日本アカデミー賞の助演男優賞を受賞するほどの俳優である。
その彼が突如、歌舞伎役者になるというのだから、世間はびっくりした。もともと彼は市川猿翁と女優・浜木綿子の間に生まれ、叔父に四代目市川段四郎がおり歌舞伎の環境の中で育つ。しかし、四十六歳にして歌舞伎役者になれるものだろうか。世間一般常識では、芸事は才能があり三、四歳くらいから始めないと物にはならないと言われている。著名なピアニスト、バイオリニスト、バレエダンサーなども皆幼時から始めている。特に歌舞伎は習い事が多い。長唄、三味線、浄瑠璃、舞踊などがあり、人間国宝と言われる中村吉右衛門や尾上菊五郎は三歳ころから舞台に出ていたという。そして今でも毎日、師匠について稽古をしている。そのような厳しい世界で香川照之はどんな道を歩むのだろうか。
昨年六月、新橋演舞場に九代目中車を襲名した彼の初舞台を観に行った。役柄は岡本綺堂作「小栗栖の長兵衛」の長兵衛役と梅原猛作「ヤマトタケル」の帝(すめらみこと)の役。
映像の世界から歌舞伎界へのかつてない挑戦で話題を呼んだが、素人目ではあるが、立派に歌舞伎役者を演じていた。独特の歌舞伎せりふを死に物狂いで稽古をしたに違いない。その努力には頭が下がる。或いは父・猿翁のDNAが流れているのかもしれない。「恥をかいても笑われてもいい。僕の中の使命感に支えられ、決意を全うするだけ」と静かに向き合った演技だった。
積み上げてきた俳優の実績が通用しない歌舞伎の道をゼロから出発する。彼は壮絶なる人生の岐路に立っていると言ってよい。
人のリセットは困難を伴う。しかし、すべてをかける勇気と覚悟があれば、残された時間で新たな道を選び直し挑戦することが出来るのではないか。