剛毅孝養の文人
テレビの「八重の桜」を見ていて、白虎隊と似た境遇のなかで無事に生き残った一少年の人生行路に思いを馳せた。その名を天田五郎という。
磐城 平藩士の家に生まれた彼は少年期に戊辰戦争に出陣し、その間に両親と生き別れる。以降は父母捜しの半生を送る。学問を修める傍ら、写真家として全国行脚に出る。長崎滞在中に旧薩摩藩士から父母の情報を得ようと、台湾征討軍にも参加する。
桐野利秋の知己を得て、西南の役にも関りそうになる。しかし彼の行動力と学才を以前より高く認めていた、師の山岡鉄舟から軽挙妄動を諌められ、清水次郎長の養子となる。
維新後の次郎長は博徒を止め、富士裾野の開墾などの社会事業を行っていた。五郎は彼を補佐しながら、その人脈を使い、父母捜しを続ける。やがて有栖川家への奉職話が出て、離籍するが、その間の恩義に報いるために「東海遊侠伝」を書く。この著によって次郎長の名が初めて世に知れ渡った。
その後も言論界などに身を寄せ、俗界を放浪しつつ父母捜しを続ける。三十五歳で出家し、ひとり庵を結び、愚庵と号する。陸羯南や与謝野鉄幹とも親しく、歌才を発揮し、子規の陰の指導者とも言われ、漱石も彼の漢詩を褒め称えた。
柿熟す愚庵に弟子も猿もなし (子規)
一東の韻に時雨るる愚庵かな (漱石)
不惑を迎え、ついに現世で父母に会うことを諦め、菩提を弔うため西国三十三所への旅に出る。その際 吉田松陰や高杉晋作の供養料を含め、品川弥二郎を含め千数百名よりの浄財が集まった。
而して里程千六百キロに及ぶ紀行を、「巡礼日記」として後世に残す。「明治の奥の細道」とも呼ばれた、その歌日記の最後の一首は、
おなじくは老蘇の森の下影に 宿てゆかな親思ふがに (愚庵)
彼の旅から百年が経ち、ほぼ同じルートを徒歩巡礼する松尾心空老師の導きで、私も西国三十三所を巡った。その際に愚庵の日記を読んだが、彼の孤高清貧にして、剛毅な生き方、孝養の精神を今も忘れられない。