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「800字文学館」

食味随筆を読む

野瀬 隆平

 食いしん坊の私はそれまで、飲み食いするしか芸が無かった。文字通り、無芸大食である。これではいかん。何か身に付けよう……、と文章を書く勉強を始めた。
 獅子文六が著した食味随筆、『飲み・食い・書く』を引き合いに出して、これからは「書く」ことも加える、と友人に宣言したものである。

 ところで、今年の夏は異常に暑かった。いかな食いしん坊でも、食欲が衰える。しかし、旨いものを食べたいと言う、食い意地は張ったままである。そこで考えたのが、胃にまったく負担をかけずに美味を堪能する方法である。それは、食味随筆を読んで、バーチャルな体験をすることだ。
『飲み・食い・書く』も愛読書の一つ。更にあげるなら、池波正太郎の『食卓の情景』である。読んでいるだけで、(旨い物を食ったような)気になる。

 池波先生が届けてくれるのは、味覚だけではない。書くことを学ぶ者には、その作文技法が良いお手本となる。例えば、作品の中に、次のようは表現がある。十七歳のころから株屋に勤め、相場をはじめたことを記した部分だ。

それはもう、こんなに結構な商売はなかった。
母が、
「学歴のない者は株屋にかぎる」
といったことばを、私は、つくづくと、
(そのとおりだ)
と、おもい返さずにはいられなかった。
小僧の身分にしては、分不相応の金が入る。

 といった、具合である。お気づきの通り、「間」の取り方が絶妙なのだ。改行で生じる空間が余韻を残し、読む者がそれぞれに行間から何かを読み取るのである。括弧や読点の使い方もまたしかりである。
「原稿料のために、枚数を稼いでいるのでは……」などと考えるのは、正に下種の勘繰りというものだ。
 落語も同じである。真打ともなれば、間を取って聴く者の想像力に訴える。弁当箱に、ぎっしりとご飯が詰まっているのでは、食欲がわかぬ。ふんわりと盛られている方が、よほど箸が進むではないか。
「書く」修行を始めて十年、まだまだ真打どころか、二つ目にも程遠い。

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