ブレンナー峠を越えて北国へ
標高1375m、アルプスを越える最も易しい峠と言われるブレンナー峠は、北国から光溢れるイタリアの地への憧れの道である。峠を越えて行った人達には、ゲーテ、ニーチェ、モーツァルト、デューラー、らがいる。
しかし、峠は両方向、北に向かった人達もいた。
ローマは北方経営の重要なルートとして馬車や戦車が通れる道路を整備していた。ローマへの道、ロマンチック街道はまたローマからの道でもあった。峠から北を望むと、チロルの谷を隔てて雪を被った連山ノルトケッテが聳え、北国の厳しい風景が迫る。
1666年、スペインのフェリペⅣ世の娘、15歳のマルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャは、神聖ローマ帝国皇帝レオポルドⅠ世の許に嫁ぐためにイタリアを経てブレンナー峠を越えた。彼女のお輿入れに先立ち、二人の婚姻交渉の過程でディエゴ・ベラスケスが彼女の成長ぶりを描いた三枚の肖像画がブレンナー峠を越えていた。ウィーン美術史美術館に並んでいる、3歳、5歳、8歳のマルガリータの肖像である。彼女はまた、5歳のときベラスケスの代表作で、プラド美術館の至宝「ラス・メニーナス」にも描かれている。
マルガリータの生涯は22年と短く、スペイン・ハプスブルグ家に長女として生まれ、神聖ローマ帝国皇帝に嫁ぎながら世界史に残るようなエピソードは残していない。しかし、マルガリータは、ベラスケスの描いた四枚の絵を残し、王女の慰めとしてブレンナー峠を越えたスペイン乗馬学校の白馬の子孫たちは今もウィーンの宮殿で優雅にバレエを踊っている。
峠の南側は第一次大戦の激戦地で、若きヘミングウェイが義勇兵の運転手として参戦した地に近い。大戦後、同地南チロルはイタリア領になり峠は国境になった。1940年秋、得意の絶頂にあったヒトラーは専用列車をここに止め、南からムッソリーニを迎えた。ムッソリーニがそれまで無学な田舎者と見下していたヒトラー観を変えた、とされる会談であった。