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「800字文学館」

秋波

濱田 優(ゆたか)

 長い間、仕事にかまけて家人に淋しい思いをさせた。卒サラした男は、その埋め合わせに、これからはなるべく妻と一緒に実りの時を過ごそうと思った。
 ところが、
「あたしのことはお構いなく。それよりあなた、濡れ落ち葉は嫌ですよ」
と、あっさりかわされた。卓球にヨガ、それに彫金をはじめて忙しいという。

 そういわれても、無芸で無趣味の男はこれからどうしたらいいか、迷うばかりだ。
 とりあえず、手近な区の広報誌を見て適当な催しや活動の情報を探った。そこで幸い、「昭和史から学ぶもの」と題する区民講座を見つけ、すぐ申し込む。自分が生きてきた昭和を振り返るのにいい機会だ。
 講座は、区民センターで三ケ月間、隔週金曜日の午前に開かれる。

 初回早めに行き、ほどよい三列目に座る。間をおかず年齢不詳ながら色香を残す女が隣に来た。男が口を利く糸口を探しあぐねていると、「チャンと予習をなさっているのね」と女が声を掛けてきた。男の机の上に置かれた講師の著書を見てのことである。それを切っ掛けに、二人は打ち解けて、幾ばくかの話を交わした。
 次回も早く行って同じ席についた。が、隣に来たのは色香の抜けたお婆さんだった。がっかりしたけれど、中休みの時、後ろの席にいた彼女を見つけ、目配せを交わすことができて気が晴れた。
 女は朝忙しいそうで遅く来ることが多く、その後席を並べたのは一度だけ。でも顔を合わせれば親しげに挨拶をしてくれる。そのとき彼女が発する魅惑のオーラを秋波というのか。
 最終回の後半は座談会だった。机を並べかえるとき、男は勇気を振るって女の隣に座った。彼女も満更でない様子。で、ランチに誘うと「よろこんで」と応じてくれた。焦らず事を運べば、茶飲み友だちの先も期待できそうだ。

 二人は洒落たスペイン料理の店でワインを飲みながら食事をし、改めて自己紹介をする。無職になった男には名刺がない。女はおもむろに角丸の名刺を取り出し、熱心にシニア向けの保険の勧誘をはじめた。

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