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「800字文学館」

チベットのヤク(毛牛)

中村 晃也

「私は八百元子です」と三十一歳の中国人ガイドの自己紹介である。
「一人っ子政策下で、第二子の戸籍登録時に支払う罰金の額で、当時家が一軒買える額でした。それが今では十二万元にあがりました」

 我々の辿った四川省北部のコースは南廻りのシルクロードの一部で、「茶馬古道」と呼ばれる交易路だった。チベット族のヤクの肉と、漢民族(チャン族)の茶の交換市が、両民族の境界である川主寺で定期的に開かれたという。

 当地はヒマラヤ山脈の東南端にあたり、ラズベリー、山珊瑚、瑪瑙、トルコ石などの貴石が採れる。これらの粉末をヤクの胆汁で処理すると、紫外線に褪せない色材ができ、チベットの旗や仏画に用いられる。トルコ石の原産地は実はチベット地方で、シルクロード終点のイスタンブールを経て欧州に売られたので、トルコ石の名前がついたらしい。

 チベット人にとって最大の財産はヤクだそうだ。大きさは子牛ほどで、荷役、乗用はもとより、毛皮は高く売れるし、毛を編んだロープやテント地は住居の材料として必須だ。
 肉は牛肉よりも美味で高級。乳は大人も子供も飲料としている。彼らの主食はナンとバター茶。後者は裸麦、くるみ、落花生を粉砕し、お茶とヤクのバターを混ぜ、少量の塩を加えたもので、水分と塩分の補給に供する。
 ヤクの糞は冬期の燃料になる。放牧していれば、餌代は不要だ。

 揚子江の支流、岷江の源流近くに、標高三千米の明高原が広がりヤクが放牧されている。過密な放牧のため高原の裸地化が進んではいるが、風光明媚の土地なので、観光バスはここを青空トイレとするのが常であった。

 ある時、日本人の男の子がヤクに小便を引っ掛けたところ、日頃従順なヤクが、狂ったようにその男の子を追い回した。ヤクは小便に含まれている塩分が欲しかったことが、あとで分かるのだが、その時は日本人乗客全員で大変な苦労をしてヤクを追い払ったそうだ。

「これが本当のヤク払い」と言ったかどうかは定かではない。

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