坂上田村麻呂の謎(大同考)
大同とは平安初期の平城天皇と嵯峨天皇の年号で24年間続いた桓武天皇の延暦の次の時代である。
柳田国男は、遠野の村々に大同の屋号を持つ旧家がいくつもあり、これらの家が甲斐国から移ってきたのが大同元年であり、一方、坂上田村麻呂の蝦夷征伐の時代でもあることに注目し、両者が混ざりあっているのではないかと言う(遠野物語24話)。
大同とは大和朝廷が東北を侵攻した時期全体をいうのではないかともいわれている。
田村麻呂は、延暦年間に数回蝦夷征討に従事した。後に征夷大将軍として多賀城から北に進出、蝦夷の武将アテルイの率いる軍を水沢市付近で破り胆沢城を築いた。
東北地方を平定した後、北方鎮護のために各地に寺社を創建している。
平泉にある達谷窟毘沙門堂は、田村麻呂がこの窟にこもって民を苦しめていた蝦夷の頭「悪路王」を破り、勝利の記念に京都清水寺の舞台を模して建立したと伝えられている。
この悪路王こそ、蝦夷の英雄と言われ、北上川中流域で朝廷軍に抵抗したが力及ばず胆沢城で投降したアテルイとされている。田村麻呂の助命嘆願にもかわらず大阪で処刑された人物だ。
護符を奪い合う真冬の裸祭りとして知られる奥州市の黒石寺、北前船の船絵馬で有名な津軽深浦の円覚寺、北上川源流にある岩手町の御堂観音など多くの寺が田村麻呂の創建に関わっているとされる。
青森県の各地で行われるねぶた祭りは、田村麻呂が敵を威嚇するために作った人形に由来するといわれ、ねぶたの影絵や人形に田村麻呂の像が使われていた。ねぶたの最優秀作品には「坂上田村麻呂賞」が与えられた。が、何年か前、征服者の名を冠するのはどうかという声が出て「ねぶた大賞」に変わった。
東北地方に田村麻呂創建と伝えられる寺社が多いのは、「化外の地」東北を経営するために政治的な意図によって歴史が作りかえられたのだろうか。勝っても奢らず謙虚だった田村麻呂将軍個人への敬愛の念があったからともいわれており、謎が多い。
(13・11.13)