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「800字文学館」

お初天神横丁の夜

首藤 静夫

 大阪駅の近く、梅田新道の交差点からすぐのところにお初天神がある。近松文楽の「曽根崎心中」で有名な場所である。その天神様の脇に、二十軒ほどの飲食店が眠ったように軒を連ねる。ネオンも呼び込みもない、曲り角の多い路地を歩くとラジオや歌謡曲の音が通りにもれ出し、客らの笑い声が聞こえる。スタンドバーやおでん屋・鴨鍋屋など古参の店ばかりだ。
 その中に「大ちゃん」がある。小さなカウンター席で季節の魚・野菜など旨いものを出す。それはいいのだがこの大ちゃん、客応対のどぎつさでも有名な御仁だ。
 この秋、大阪を去って三年ぶりに顔を出した。いきなり、
「シュトちゃん、いらっしゃあい。まだ生きとったんか?」である。えらいご挨拶だが、再び来ないかも知れぬ客を憶えてくれている。
 他に客が居ず、二人でゆっくりしていたら、
「さっぱりねえ」と隣のスナックのママが現れた。私は初対面だ。ママは飲みながらも外を窺っては溜息まじり。
「人が歩いてへん、あかんわ」と大ちゃん。
 ママも腰いれて飲み始める。酩酊した私が、
「客も来ないし、ママのところで三人で歌うか?」
 二十分も歌ったろうか、入口に客の影。
「いらっしゃい」とママ、ところが様子が変だ。客はビールの入ったコップを持って立ったまま、
「大ちゃん、たいがいにしとけよ、あて(つまみ)もなしに下手な歌聞かされてよう待たんわ」
 事情が飲み込めた。彼の店に来た客で、ビールを勝手に飲んで待っていたのだ。
「やかまし、何かあるやろ」といいながらも彼は歌い終えると店に帰った。私もほどなく引き返したが、先ほどの客ともう一人が彼と馬鹿を言い合って飲んでいる。勘定を頼むと、
「久し振りやさかい一万円でええわ」と大ちゃん。たいてい七千円程度だが、(今夜は客の数が寂しいからお願い!)の意味だ。
 帰路についたが途中で、(まてよ、隣の店に行く前に済ませたような、そういえばママのところ払ったか知らん?)
 訳がわからなくなってきた。

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