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「800字文学館」

北上川の源泉 弓弭(ゆはず)の泉

大月 和彦

 いわて銀河鉄道の御堂駅から国道4四号線を北へ約四㎞、岩手町の御堂集落がひっそりとある。ここから旧奥羽街道に入るとまもなく道端に鳥居が立っている。崩れかけた石段を数十段登ると杉木立の中にこじんまりした観音堂があった。狭い境内に杉の老木が立ち、根元の洞ろから水が湧き、小さな池に流れ込んでいる。北上川の源泉弓弭の泉だ。

 池から流れる朽木川ともう一つの川の合流点から下流が北上川とされ、岩手、宮城県を流れ、仙台湾に注ぐ大河はここから始まる。奥羽山脈と北上山地が接する山地にある御堂集落のすぐ北が八戸に注ぐ馬淵川との分水嶺になっている。
 史書に「水陸万頃にして蝦夷虜存(えみしいきながら)へり」とあるように流域に豊饒の地を作り、奥州平泉文化をはぐくんだ母なる川の源流だ。

 御堂観音と呼ばれる天台宗正覚院は、大同年間に坂上田村麻呂が祈願所として開基したと伝えられる。後に前九年の役で安倍一族を征討中に炎暑に苦しんでいた源義家が弓の弭で境内を穿ったところ清水が湧き出したという。

 落ち葉を掃いていた住職によると、明治初期には荒れ果てて無住の寺となっていたが四代前の祖先が新潟から移り住んできたという。南部藩主に崇敬され、保護を受けた記録がある由緒ある寺も明治の廃仏毀釈の時に荒れてしまったのだろう。

 江戸時代の旅行家菅江真澄は二度訪れた。「ここの観世音菩薩は厩戸皇子とも田村麻呂の創建とも伝えられている…。堂の前にささやかな泉がある。これが北上川の源である。」と由来を記し、「願い事のある人はこの池に紙を裂いて作ったこよりを投げ、沈むと願いが叶い、浮くのは神に受け入れられないもの…」と村の風習を記録している。
 また「御堂守に一夜を頼み、ここに宿った。…このような辺境では柾といって薄く削った板を細かく割り、あるいは枯れた太いいたどりの幹をくだいて小さい箱に入れ、便所の隅につっておいて用便のたびにつかっている」と当時のトイレ事情を書いている。真澄らしい生活の匂いがする記述である。

(13・12・26)

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