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「800字文学館」

旅日記 ―蒸気機関車―

野瀬 隆平

 汽笛一声。発車と同時に、昔の旅を思い出させる懐かしい匂いが漂ってきた。蒸気機関車にけん引された列車が、人吉駅のフォームを後にゆっくりと動き出す。日本三大車窓の一つである、肥薩線矢岳峠越えの風景を眺めての帰り道である。

 朝、熊本を出発して吉松に向かう。八代から肥薩線に入り、人吉を経由して海抜536.9mの矢岳駅を過ぎて、熊本県と宮崎県の県境にある長いトンネルを抜けたところで、列車は一旦停車する。ほとんどの乗客が、ここからの眺めを見るために乗っているからだ。見下ろす町は宮崎県のえびの市。その先に、1700mの韓国岳を始めとする霧島の山々が連なっている。女性の声で車内放送が流れてきた。
「本日の皆様は大変幸運です。めったに見られない桜島までも望めます……」
 良く目を凝らすと、遥かかなたに桜島が霞んで見える。

 吉松まで行って、駅から外にも出ずに、そのまま同じ路線を引き返す。峠越えの車窓をもう一度見ることになる。人吉からはSLに乗り継いで熊本まで帰ることにした。機関車の先頭には、「人吉」の丸いエンブレムが掲げられている。3両連結の最後尾の車両には展望室もある。
 列車に乗り込む前に、機関車と列車の写真を何枚も撮った。一旦、乗り込んでしまえば、SLだといっても電車やディーゼル・カーと何ら変わらないと思ったからだ。
 しかし、そうではなかった。匂いだけではなく、音や振動も違う。あの「ガー」というエンジンやモーターの音がしないので、静かに、いかにもスーッと引っ張られてゆく感じで動き出すのだ。
 もう一つの違いは、窓の外にあった。景色そのものは変わらないが、黒い煙が後方に流れ去って行くのである。特に、きつい勾配を昇るときや、速度を上げる時には、煙をもくもくと吐き出す。その煙を目と鼻で感じ取ることで、蒸気機関車にけん引されていることが実感出来る。
 子どもの頃の旅を、思い起こしながら揺られているうちに、列車は熊本駅に到着した。

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