箱根の山は天下の嶮―頼朝逃走
治承4年(1180)8月17日、伊豆に流されていた頼朝が韮山で打倒平氏の兵を挙げ、東に進軍した。23日に小田原の西、早川近くの石橋山に陣をかまえたが、当てにしていた三浦氏の援軍が到着せず、圧倒的な平氏の軍勢に大敗し、箱根の山中に逃げ込んだ。
この地域の豪族土肥実平や北条時政ら近臣に守られ、岩窟や洞、箱根山の僧房に隠れたりして追い手をかわし、28日に真鶴崎から海路安房国へ渡る。五日間の逃避行だった。
小田原から熱海までの海岸の背後に広がる急峻な山地に繰り広げられた追跡と逃亡劇は、唱歌「箱根八里」の「万丈の山、千仭の谷、前に聳え後に支う…武士が大刀腰に…岩ね踏み鳴らす…」の世界だった。
史書や物語には、洞窟に隠れていた頼朝を平家方の梶原景時が見つけ、わざと見逃したという逸話や武将の武勇伝、家臣の忠誠を示す逸話が記されているが、逃走経路や地名の記述が少ない。
昨秋、五万分の一の地図を手にこの山地を歩いた。湯河原駅裏からの坂道に「鎌倉幕府開運街道」の道標があり、登り始めるとすぐ城願寺があった。頼朝の側近土肥実平を祖とする一族の菩提寺である。
ミカン畑や住宅地が続いた後、まもなく檜や竹が覆う林道になる。
頼朝にまつわる言い伝えの岩や石が残っている。
頼朝が休息した時脱いだという「兜石」、運だめしに投げた石が立ったので運が開けたという「立石」、踵で蹴った跡にできたという「硯石」など。
町の東のそびえる城山(五六九m)の頂上が土肥城址だった。討死を覚悟した頼朝が肌につけていた観音像を安置したという逸話の「しとどの窟」が近くにある。
ここから、箱根外輪山のいくつかの峰と複雑な尾根や深い谷筋が相模湾に向っているのが一望できる。
地図を探ると、はるか東方に見える大観山(1012m)の近くには景時が大杉の空洞に隠れている頼朝を見つけながら逃がしたという「土肥大杉跡」が記念碑として記載されていた。
「8月18日、土肥の真鶴崎より船に乗り安房国に向かい、29日同国平北郡猟島に着く」と史書にある。
(14・1・29)