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「800字文学館」

小野田寛郎さんの想い出

都甲 昌利

 先月、小野田寛郎さんが亡くなられた。ルバング島のジャングルで太平洋戦争終了後も、29年間潜伏し、生還した小野田さんの死を新聞やテレビは様々な形で報じていた。私は小野田さんと初めてお会いした日のことが蘇ってきた。

 私のシカゴ勤務時代、「No Surrender, My thirty-year War」(講談社)という本の売り込みのためにシカゴに来られたのだった。
 初めて会った印象は、背はあまり高くはないが、背筋をすっきりと伸ばし、いかにも元軍人という風情であった。話を伺っているうちに、実にモダンな紳士の印象を持った。軍人になる前は商社マンでモダンなプレイボーイだったという。ダンスも好きだというので「プレイボーイ・クラブ」へお誘いした。しかし、眼光は鋭かった。歩くときも用心深く歩く。完全に文明社会に復帰はしていないと彼は言った。私も「この人はいずれまた、ジャングルに帰るのではないか」と思った。

 3日間のPR活動を終えて、小野田さんは帰国した。まもなく、小野田さんはブラジルに渡り、銃とナイフを持ち馬に乗って、牧場を走り回る生活をしているということとを聞いた。
 小野田ブームも沈静化して、私もその後、転勤生活のため、彼の存在を忘れかけていたとき、ひょんなことから、再会することになった。場所は東京。
 シカゴから20年後の1995年の8月、小野田さんが書いた「たった一人の30年戦争」(東京新聞社)の出版記念パーティーが東京新聞主催で行われた。東京新聞に友人がいて、「それではパーティーに招待するよ。小野田さんもきっと喜ぶよ」と話が進み出席することになった。

 小野田さんは私を良く覚えていた。記憶の良い人だ。このとき初めて町枝夫人にお会いした。内助型女性という印象だ。小野田さんを語るとき発見者の鈴木青年を忘れてはならない。鈴木青年はヒマラヤで遭難死するが、未亡人とお子さんも出席していた。小野田さんは「一生面倒を見る積もりです」と言った。彼の目は優しかった。

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