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「800字文学館」

ルーツ探しは面白い(カンカン帽)

池田 隆

 ルーツ探しをして初めて曾祖父の保造とカンカン帽の深い関わりを知った。

 明治二十年代、一般家庭に電灯が普及していく。伊賀で灯明用菜種油を生業とする家系の婿養子となった保造は、将来に一抹の不安を覚える。
 先代が亡くなると、彼は明治特有の進取風に後押しされ、油業を続けながら、息子の保示と共に麦稈真田製のカンカン帽の製造販売を始める。十九世紀末から欧米の紳士は夏にそれを愛用していたが、日本でも流行り始めていた。そこに目を着けたようだ。
 たしかに素材の麦わらはすぐ手に入る。伊賀は昔より真田紐の名産地で、紐を平たく伸ばし固く編む技術と人材に事欠かない。
 当時、世界では新興のイタリア勢がカンカン帽市場を席巻していた。それに対し老舗のベルギーのメーカーがパリ万博(1889)で見かけた見事な日本の真田紐に驚き、その技術を生かした海外生産を行いたいと伊賀を訪れる。製帽業を営む保造と出会い、彼の工場でベルギーブランドの生産を始める。やがて伊賀工場だけでなく、四国に別工場を建てるほどに共同事業は発展していく。因みにカンカン帽が当時の神戸港からの輸出品目の五指に入っている。
 商談や技術指導に訪れるベルギー人相手は、専ら息子の保示が担当する。ところが仕事のためにベルギーへ出掛けた保示がそこで出会った娘と恋に落ち、結婚してブラッセルに住み、日本に戻らなくなった。家督と家業を継がせる予定だった息子である。
 保造は仕方なく娘(私の父方祖母)に婿養子(私の祖父)を取り、家業の油業を継がせ、自らは新事業に専念するため神戸へ転居する。その数年後に先祖伝来の油屋が火事を出し、婿養子と店舗を失う。
 ただ辛亥革命で弁髪を廃止した中国でカンカン帽の需要が急増し、新事業の方は順調であった。併しそれも第一次大戦後の世界不況で傾き始め、昭和恐慌で止めを刺される。保造は失意のうちに世を去る。

 時代に翻弄された彼の人生に、わが身も重なり、思いは尽きない。

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