テオドール・フォン・レルヒ ―スキー事始め―
ソチ五輪のジャンプ団体で、銅メダルを獲得した日本チームに鈴木礼留飛(22歳)という選手がいた。上越市に近い新潟県妙高市出身という。
明治末に高田町(上越市)で、日本に初めてスキーを紹介したオーストリアの陸軍少佐テオドール・フォン・レルヒにあやかってこの名がつけられたのだ。
明治44年(1911)、高田の第13師団長長岡外史中将は、スキーの陸軍への導入と民間への普及を目指して、レルヒ少佐を高田に招聘した。
少佐は郊外の金谷山で陸軍関係者と県内外の中等学校の教師や民間人を集めてスキーの講習会を数回開催した。日本のスキー事始めと言われる。
講習会でスキーを習った参加者たちは、その後各地に新しいスポーツとしてスキーを普及させた。
長野県から参加した飯山中学校の体操教師は、2台のスキーを持ち帰り授業に取り入れた。その後近くの野沢温泉にスキー場が造られ、わが国有数のスキー場に発展し、ここから五輪選手を輩出した。
青森県弘前師団から招待された大鰐出身のある将校は、退官後スキーの普及に生涯をかけた。大鰐の阿闍羅山にあるスキー場は大正末に日本選手権大会が開かれるほどの名門になり、五輪選手を生んでいる。
高田に近い妙高山麓の関温泉の旅館主も参加、赤倉温泉などにスキー場を開発し、スキー発展の基礎を作った。
レルヒを招いた長岡外史は、長州の出身、西南戦争に従事、明治43年に高田師団長に就任する。若いころ北欧を視察中、ストックホルムでスキーを見て日本にもと考え、軍への導入と民間への普及に努めた。
明治35年冬の青森連隊の八甲田山遭難事故をきっかけに、スキ―の導入が検討されていたことも背景にあった。
導入の経緯は長岡外史の孫、忠一氏の著書(注)『日本スキー事始め ―レルヒと長岡外史将軍との出会い―』に詳しい。
上越市郊外の金谷山は日本のスキー発祥の地である。丘の上には一本杖を手に、スキーを履き、市街地を見下ろすレルヒの銅像が建っている。
(注)ベースボールマガジン社発行 1989年
(14・3・25)