「春はあけぼの」異論
「春はあけぼの」と『枕草紙』で清少納言が提唱してから千年、これが極め付けとなっている。しかし私はあえて異を唱えたい。そもそもこの時刻、寝坊助の私はぐっすり寝入っていて、山や雲を眺めることはない。ましてや「春眠暁を覚えず」の時季だ。大概の人はそうだろう。
私は「春は夕暮れ」が好きだ。
街に灯火が点りはじめる頃、繁華街は賑わいを増し、店々の多彩な照明に辺りは華やぐ。行き交う女たちはコートを脱いで春を装い、色めいて見るだけで心浮き立つ。
疎らな街灯が頼りの住宅街では、コブシ、ツツジ、カイドウなどの庭木の花が紅くまたは白く夕闇に浮かび上がり、どこからか甘やかなリラの香りが漂ってくる。こんな春の宵は埋み火の官能がまた起き出しそうで危うい。
清少納言は「秋は夕暮れ」とすすめ、カラスが巣に帰る様子に心ひかれる、と記している。が、これは全く受け入れられない。カラスは、ゴミ奉行をしている家内の天敵であり、色も姿も可愛くない。秋の主役は紅葉で、相方は青空でしょう。
そこで私は、「秋はひるなか」に差し替えたい。
台風が一つ過ぎて晴れ渡った真っ昼間、澄みきった蒼天に全山燃えるように紅葉が輝く。その景観を目の当たりにすれば、圧倒されて言葉を失う。接近して仔細に観ると紅葉(こうよう)する木々の個性に驚かされる。赤にも紅、朱があり、黄色、褐色と意外に多彩である。
秋空に映えるのは紅葉ばかりではない。たわわに実ったリンゴ、鈴なりの色づいたカキもそれぞれの地方の風物詩として欠かせない。
秋はまた陽射しが貴重になる季節。小春日和の陽だまりで心許せる友だちと語り合うのは最高の幸せのときといえよう。
「夏の夜」と「冬の早朝」には今のところ特に異存はない。
エッセイストの元祖の名作に、浅学を省みず、あえて異論を唱えたのは、自分なりの四季を書いてみたかったからで他意はない。
私は年来、千年前の都会派で才気煥発の清少納言が大好きだ。