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「800字文学館」

災害から生まれた橋

野瀬 隆平

 江戸時代から東京は幾度も大きな災害に見舞われている。中でも、「振袖火事」と呼ばれる明暦の大火、関東大震災それと終戦直前の大空襲では壊滅的な被害をこうむった。

 最近、仲間と、歌川広重が『名所江戸百景』で描いた景勝地を巡っている。休日に四、五か所ずつ歩いて見て廻り、一年かけてすべてを制覇しようというものだ。当然のことながら、浮世絵の建造物がそのまま残っていることはまれである。災害で壊れて無くなったり、再建されても、場所や形が変わっていることが多い。

 逆に、大災害から得た教訓をもとに、新たに造られたものもある。その一つが、「両国橋」である。この橋が出来るまで、江戸城の防衛という観点からも、隅田川には千住の大橋しか架かっていなかった。
 明暦の大火により、江戸の人口のおよそ四分の一にあたる十万人以上が命を落とし、町の六割が消失した。逃げ惑った人たちは、隅田川に追い詰められ、多くが焼死あるいは溺死したのである。惨事を目の当たりにした幕府は、「ここに橋が架かっていたら……」と、本所方面へ渡る橋を造ることにした。
 本所は上総の国、江戸城があるのは武蔵の国、この二つの国を結ぶので「両国橋」と名付けられた。
 建設に当たり、大火事があっても橋が類焼しないようにと、橋の両たもとに広い空地を設け、建物を建てるのを禁止した。広小路と呼ばれるものである。
 橋の維持管理には膨大な費用がかかる。幕府はこれを町人に請け負わせることにした。費用をどうねん出するか。広小路に、よしずやこも張の小屋を仮に設けて、芝居・寄席・茶店などの営業を特別に許可し、そこから上がる土地の利用料を充てさせたのである。広小路は、江戸の盛り場として庶民たちで大いに賑わった。

 最初の両国橋が、今日そのまま残っているわけでは勿論ない。江戸時代に流失二回、焼失五回の憂き目にあい、現在の橋は、関東大震災のあとに元の橋から八十メートル上流に架けられたものである。

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