板碑ってな~に?
それは私が生まれてからずうっと庭の隅に半ば埋もれていた。長さ約七十センチ、幅約二十センチの三枚の石版である。この齢になって庭を整理しようと思い立ち、石版の表面を洗ってみると梵字が現れた。
新宿歴史博物館の調査により、石版は中世に造立された三基の供養塔であることが判明した。
秩父長瀞方面に産する緑泥片岩を材質とする「武蔵型板碑」で文字資料の少ない中世における貴重な歴史資料であるという。板碑を同博物館に寄贈するに当たり、調査資料を受領した。以下その抜粋である。
一基は徳治三年(1308年)、他の二基は正長三年(1430年)と嘉吉元年(1441年)の銘入りである。鎌倉期と室町期のこれら板碑は浄土信仰に基く供養塔で、三番目のものは生前供養板碑である。
頭部を山形につくり上半分には梵字や図像で阿弥陀(キリーク)や観音、勢至が刻まれ、下半分には年号、供養者などの銘文が刻まれている。
江戸時代からは、木製に変わり以後の出土はない。爾来板碑は橋や階段、漬物石などに転用されたらしく出土数は少ない。
今回の板碑の原位置は不明であるが、中村家の所有地内にあったと考えられる。当家は江戸時代の東大久保村の名主中村理右衛門の子孫であり、近江の佐々木氏の流れをくみ、十七世紀初頭に当地に来住したようで、広大な土地を所有していたという。現在の中村晃也家の立地は鎌倉街道伝承地や室町期の集落遺跡である新宿六丁目遺跡にほど近く、板碑の原位置もこの周辺と考えられる。
中村家は江戸時代には戸塚村と大久保新田の名主を代々勤め、明治時代になってからは副戸長、村長、郡会議員などの公職を勤めた旧家である。貴重な手がかりとして「新編武蔵風土記稿」(巻乃十一、豊島郡乃三)に出自の伝承が掲げてある。云々……。
この事実を知った妻曰く、「えっ、庭にそんなに古いものがあったの? 貴方も相当古い頭脳の持ち主と思っていたけど、そんな環境に育ったのだから仕方ないわね……」と。
二十六年六月