作品の閲覧

「800字文学館」

父の背中(中)

新田 由紀子

 夜の国道4号線を1台の乗用車が北上して走る。長い橋で利根川を渡ってからどのくらいたったのか。宇都宮の町灯りが見えてきた。東北自動車道が開通する10年も前のこと。交通量も多くない。開け放した車窓からは軍歌が聞こえている。
 武運めでたき 宇都宮 神風そよぐ 二荒山
 宝木原に 屯する 栃木歩兵の 精鋭は
 野州男児の その中を 選び抜きたる つわものぞ
 歌いながらハンドルを握るのは父だ。私は助手席で眠気をこらえている。後ろの従姉妹たちはもう寝入っている。と、急ブレーキがかかった。タイヤがきしみ車体が傾いて止まった。車は路肩に乗り上げている。ハンドル握ってたばこを吸って大声で歌を唄って、そのあげくカーブを曲がり損ねたようだ。
 父は私と従姉妹たちを車に乗せて故郷の生家に向かっていた。車はピカピカの日産セドリック。大きな金の指輪をはめ、腕にはスイス時計が光る。おまけにネクタイをしめて背広を着込んでいる。作業服に印半纏のいつもの姿とは大違い。まさに『故郷に錦を飾る』の出で立ちだ。家業の材木屋は好景気をとらえて繁盛の一途をたどっていた。田舎から呼び寄せた妹夫婦に営業を任せ、納屋の奥には数人の従業員を住まわせた。床の間に銘木を施し、欄間や広縁をしつらえた家も建てた。深川木場の問屋の丁稚奉公に始まった商売は、高度経済成長の波に乗って花開いた。
 事故を起こしかけて、父はその日のうちに生家に着くことを諦めた。車を鬼怒川の土手に乗り入れると、車中で一夜を明かした。翌朝、鬼怒川に大谷川が瀬音高く注ぎ込むあたりで丁寧に車体を洗う。生家はもうすぐそこだ。すると、父は革靴を脱ぎズボンも脱ぐと、するすると水に入っていった。流れに手を入れては川底を探る。生家に盛装で乗り込むことも、私たちのことも忘れたのか。故郷の山河を目のあたりにしてすっかり童心にかえっている。いがぐり頭の小僧のように遊ぶその肩ごしに、日光連山が朝日を浴びて眩しく輝いていた。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧