幕府巡見使のお通り
天明年間のある夏、盛岡から北へ旅をしていた菅江真澄が岩手県北部の渋民村(玉山村)と沼宮内(岩手町)を通りかかると、大勢の村人が道や橋の普請をしているのに出会う。幕府の巡見使が近くこの村を通るので、藩役人の指揮でその準備に追われているのだった。
突き出た石を削り、草を刈り、張り出した木を伐り、鍬や鋤を手にしの竹で編んだ籠に土を掻き入れて運んでいる。
「よく見ると彼らの額にさまざまな文字が書いてあり、人改めのしるしである。それが汗に流れてますます顔が黒く見え、まことに暑そうである」と真澄は旅日記に記している。
江戸時代、将軍が代わる度に幕府は巡見使を各地に派遣して、藩政や民情を視察した。迎え入れる藩は、粗相の無いように接待に気を使った。通過し、宿泊する村の住民にとって大きな負担だった。
この時の巡見使は、蝦夷松前の視察を済ませて江戸へ帰る途中の幕府高官普請役藤沢要人の一行で、真澄が通った2カ月後、下北半島から南下して盛岡に向かうところだった。一行の中に、巡見使に随行して蝦夷と東北地方を見聞した紀行『東遊雑記』を著わした地理学者古川古松軒がいた。
古松軒はその著書の中で「朝、沼宮内御発足、三里半渋民、四里余盛岡に御止宿」と記し、真澄が見聞した村々のことをも書き留めている。
地理学者らしく、奥羽2国は国内の3分の1の広さを持つが、山や原のみで人口はいたって少ない。信頼できる地図がないと嘆き、九州を旅した時、辺鄙の下国(げこく)に驚いたが、人間は愚鈍ではなかった。南部領のこの地では下々の人は賎しいのみならず、愚鈍である。昔は夷と称したが、現在も夷とそれほど変わっていない。中より以上の人も今のようだったのだろうと辛辣な感想を述べている。
同じ時期に、南部領の村を歩いた二人の知識人 ― 生涯を旅で過ごし庶民の生活を観察した市井の人菅江真澄と、地理学の第一人者で幕府高官に随行して各地を歩いた古川古松軒の目線の違いは、興味深い。
(14・7・24)