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「800字文学館」

マラカナンのセンターサークルに祈る

志村 良知

 ワールドカップブラジルはドイツの優勝で幕を閉じた。
 私は、決勝が行われたエスタジオ・ド・マラカナンのピッチに入り、センターサークルに立ったことがある。1992年8月のことで、観衆の転落事故後だったが立見席は残っており、収容20万人の威容の時代だった。

 リオデジャネイロ駐在の姉一家と出かけたその日は、競技はなく何か工事が行われているらしかった。一般見学路脇にフィールドへ出るトンネルがあるが、下り傾斜で中は暗くフィールドは見えない。
 入り口に煙草を吸いながら見学者がトンネルに近付かないように見張っている番人がいた。「あいつ邪魔だね」と話している時、兄が番人の吸っている煙草に目を付けた「一番の安煙草を吸ってるな」。
「あなたの高級煙草を貸して、試してみるから」と姉。そして封を切って間もないアメリカ煙草の箱を見せびらかしながら交渉に入った。当時猛烈なインフレに悩むブラジルでは天文学的値段の憧れの一品である。結果「一行7人、一人一本づつ、トンネルを通ってフィールドを見せてよ」という交渉に成功した。

 トンネルの一番低いところにはなぜか水が溜まり、靴を脱がなくてはならなかった。そこはフェンス際をぐるり一周する深さとも巾3メートルほどの壕だった。つまり、興奮した観客がフェンスを越えると、その壕の底に落下する仕掛けになっていた。

 壕を越えるとトンネルは上り傾斜になり、最後の階段を上ると目の前にピッチが広がっていた。当時小学生だった姉の三人の子供ともども一斉にピッチに駆け込んだ。後ろから誰かの怒鳴り声が聞こえたがそんなものは勿論無視で、ハーフウェイライン上を駆ける。後で聞くと、煙草にはピッチに入る分は含まれていなかった由であった。
 そんなこととはつゆ知らず、聖地マラカナンのセンターマーク上で、翌年に始まる日本のプロサッカーリーグ(Jリーグ)の成功を祈念した。その後の日本サッカーの隆盛は全てこの時の祈りのおかげである。

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