作家・深田祐介氏ともう一つの文学賞
去る7月14日深田祐介氏が亡くなられた。訃報は日本全国に伝わった。
昭和33年「あざやかなひとびと」で文學界新人賞、44年「新西洋事情」で大宅壮一ノンフィクション賞を、更に57年「炎熱商人」で直木賞を受賞した輝かしい経歴を持った作家だ。また、直木賞を始め数々の文学賞の選考委員を勤め有望な作家の発掘にも精を出した。
その彼が平成20年、重光葵賞を受賞されたことは余り知られていない。この賞は元副総理・外務大臣、重光葵の遺族が没後50年を記念して創設されたもので、「日本の東西交流、国際間の相互理解の架け橋となるような作品」に対して贈呈される。この年は深田氏と「明治天皇」を著したドナルド・キーン氏が選ばれた。選考委員は渡部昇一、岡崎久彦、工藤美代子、田久保忠衛の各氏であった。
受賞の理由は、昭和18年日本で行われた世界で初めての大東亜会議と大東亜共同宣言を題材とした深田氏の著書「黎明の世紀」(文芸春秋・平成2年)が重光氏の「亜細亜の独立と武力によらぬ協調」という思想と構想の核心をついたものでこれが高く評価されたという。
大東亜会議とは昭和18年、まだ戦時下の東京にタイ、ビルマ、インド、フィリピン、中国、満州の6カ国首脳が集まりアジアの解放と平和を謳った会議である。深田氏は膨大な資料と生存者に直接インタービューして“ポツダム史観”の虚偽をつくこの画期的な労作を出版した。
この書物は当時日本のマスコミ界に衝撃を与え様々な論争を引き起こした。特に左翼の学者やジャーナリストからは反論は凄かった。「戦争犯罪人の東条を擁護するものだ」とか「戦後の民主主義を破壊するものだ」という轟々たる非難を浴びた。その中にあって政治学者の姜 尚中氏(当時東大教授)が「深田氏は歴史学者でない。小説家だ。小説家があのような見方をしてもよい。目くじらを立てることでない」と発言し論争が収まったことを覚えている。
了