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「800字文学館」

時よ戻れ、あなたは偉大だった

志村 良知

 その小柄な婆さんは「部屋はある、見るか」と言って先に立った。アップダウンが続く古びた長い廊下の奥に、古色蒼然とした調度の広い部屋があった。
 1998年夏、イギリスに渡るフェリーに乗るためカレーに向かっていた。日が暮れてきて今宵の宿探し。高速道路を下りて入ったラ・フェールという小さな町の真ん中にあった結構な構えのホテルに部屋を問うた。
 婆さんは部屋の明かりを点けて「宿賃は朝食付き二人で335フラン、夕食は出せないので外で食べてくれ」という。7、8台は停められそうな木造の屋根付きガレージまで別の婆さんがついて来て誘導してくれた。適当に停めたら後から来る車の邪魔になるからもっと壁に寄れ、とぎりぎりに寄せられた。

 朝食は、パンとバターとジャムだけ、ナイフ一本でフォークがないフランス式。10セット以上のテーブルがある広いレストランに客は我々だけで他には誰もいない。昨夜の婆さん二人が入れ変わりでジュースだコーヒーだミルクだと世話を焼いてくれる。
 辺りを見回すと時代物のマントルピースに大きな木製キャビネットの真空管ラジオが鎮座、その脇に40歳くらいと思われるシェフ姿の男性の白黒肖像写真と、さらにシェフを中心にした10人余りの集合写真が並んでいた。
 謎は解けた。彼はどちらかの婆さんの連れ合いで、オーナーシェフだった人なのであろう。そして、かなりの隆盛を誇ったこのホテルレストランは、1960年頃のシェフの死により外の時代推移とは関係を断ち、そのままゆっくりと人も建物も調度もラジオも固有の時間の中を過ごして来たのであろう。

 達筆の手書きの請求書を渡された。これは小切手だな、と小切手帳を探ったがクレジット・カード可であった。婆さんはゆったりとした手つきで手動のインプリンターにICカードとカーボン紙をセットし、ガチャンとやった。
 ガレージでは壁ぎりぎりに我が愛車一台だけが停まっており、他に車が来た形跡はなかった。

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