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「800字文学館」

鰻の思い出

首藤 静夫

 人事部に勤務の一時期、海外駐在員の世話活動業務を担当した。
 駐在員とご家族の皆さんに、海外で安全に健康に過ごして頂くための相談窓口である。
 駐在員は一、二年に一度帰国休暇が認められているが、それが夏季に集中する。帰国すると私たちの部署にも土産持参で近況報告に来てくれる。
 その後昼食となるが費用は勿論人事部持ちだ。希望を聞くと多くの人は鰻という。近くに「神田きくかわ」の支店がある。うな重を頼むと重箱からはみ出るほど大きく、ふっくらとした鰻が出てくる。

 余談であるが、祖父は息子たちに家業を譲ったのち、隠居仕事に養鰻業を始めた。夏場の最盛期は鰻が毎日食卓にのぼった。出荷できないキズものなどの自家消費だ。
 祖父が見よう見まねでさばき、拵えた蒲焼が大皿に盛られて出てくる。焼きたては旨いが、その後は冷え、硬くなる。それでも毎日食べるのだ。電子レンジなどない時代のことだ。以来、蒲焼は敬遠した。

 「きくかわ」の鰻は祖父のとは比べものにならない。喜んで駐在員と連れ立って行った。しかし、連日となると老舗の味も分からなくなる。
 いい加減に飽きがきた9月初旬、ドイツからK君が帰国して挨拶にきた。前日に深酒して体調の悪かった私は会食どころではなかった。しかし、断るわけにもいかない。若いK君のことだ、きっと鰻だろうなと思うと気が重い。あの分厚い姿を想像すると苦い胃液が上がってくるようだ。
 おそるおそる希望を聞く、
「藪蕎麦もあるし、寿司でもいいよ。鰻も……」
 最後の一言は出したくない言葉だが、彼だけに言わないのも失礼だ。彼の返事は「どれも嬉しいのですが、三富(さんとみ)のラーメンでもいいですか。実は昨夜、古巣の仲間と飲みすぎまして……」
 三富というのは東京駅のガード下にある大衆中華食堂だ。飲んだ翌日はそこで汗を拭きつつ麺類を食べるサラリーマンが多い。
 二日酔いの時のラーメンの旨いこと――(K君、君は本当にいいやつだなあ、助かったよ)

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