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「800字文学館」

黄金が出た-天平の産金

大月 和彦

 奈良朝聖武天皇の時代、天平文化が花開く一方、権力闘争や地震、疫病の流行、飢饉などが続き国内は混乱と不安が続いていた。
 心を痛めた聖武天皇は仏教の力で国を守る「鎮護国家」思想に基づき、天平13年(741)に全国に国分寺と国分尼寺を建立する詔を発した。都には総国分寺(東大寺)建立の工事を進め、盧舎那仏の鋳造が完成に近づいていたが、大仏に鍍金する金が不足して完成が危ぶまれていた。当時金は外国から移入していた。

 天平21年、陸奥守百済王敬福から小田郡に黄金が産出したとの報告があった。国始まって以来の金の産出とあって都は湧きかえった。黄金が献上されて、大仏は完成した。
 史書には、「陸奥国より始めて黄金献上」、「天皇、東大寺に行幸し造営中の大仏にその報告と感謝の言葉を表白…」ある。
 当時越中守だった31才の大伴家持はこの報を聞き、「陸奥国より金(くがね)を出せる詔書を賀(ほ)く」の詞書のある長歌と短歌を詠んだ(万葉集)。

 陸奥での黄金の発見は、朝廷の東北経営に大きな影響を与えた。多賀城に国府と鎮守府を置き、胆沢にも城柵を設けるなど陸奥の支配力を強めた。

 陸奥国小田郡の所在地は、長い間分からなかった。
 江戸時代の国学者たちにより仙台平野の北東、遠田郡涌谷町の山間にある黄金山神社が産金の場所と考えられ、明治になると大槻文彦博士などもこの説を支持した。

 昭和32年の発掘調査により、付近から基壇跡と根石群が見つかり、「天平」と彫られた瓦が出土し、天平の産金に関連した堂があったことが明らかになった。昭和42年に「黄金山産金遺跡」として国の史跡に指定された。
 JR石巻線涌谷駅から四㎞程離れた丘陵の麓に木立に囲まれた神社がひっそり佇み、家持の「須売呂伎能御代佐可延牟等阿頭麻奈流美知乃久你金花佐久」を刻んだ碑が建っている。

 家持は延暦元年(782)年、兼安擦使陸奥鎮守府将軍として多賀城に赴任した。当時作歌活動を止めていた家持は、多賀城から遠くない黄金山神社を訪ねたのだろうか。

(14・9・25)

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