熱い湯の中、尻はいかにして守られるか
「動(いご)くな、湯が喰い付きやがる」
口開けの朝風呂、尻にちりちりくる湯に首まで浸かり、歯の間から切れ切れの小唄を押し出していた江戸っ子、誰かが身じろぎして浴槽の湯を動かした瞬間怒鳴りつける。
浴槽の中では、人間の体(固体)と湯(流体)の間に温度境界層(以下単に境界層)という層ができて体と湯の接触のクッションとなっている。流体の粘性に起因すると言う境界層内部では熱の移動の主役となる対流がなく、熱は伝わりにくくなる。しかし境界層の厚さは1ミリ以下であり、流体に動きがあるとさらに薄くなるので、じっとしていないと境界層の恩恵は受けられない。
熱い湯を揺らすと、人体表面の境界層は薄くなり、湯が直接食いついてくる。お湯の供給や入浴客の出入りで常に揺れ動いている温泉の大浴槽の中では境界層が形成されにくい。従って湯は直接人体に当り、温泉では湯の温度の割に体がよく温まり湯ざめしにくいという実感となる。
空気は水より熱伝導性が悪いのでこの現象は顕著になる。冬の朝、風の有無で体に感ずる寒さは随分違う。逆にサウナの中では風がないため、境界層が90度の熱気から身体を守ってくれる。試みにサウナに団扇を持ちこんであおいでみよう、周囲は「風が喰いつく」と大騒動になることを請け合う。
映画『タイタニック』のヒロインは氷海の漂流物上から救出される。ずぶぬれだった彼女を氷点下の気温から守ったのは、無風だった故に衣服の下に形成された境界層である。彼女がふくよかめであったのも幸いしたかもしれない。
流体の中を運動する固体の表面には速度境界層が形成される。飛行機が飛び、発電タービンが回り、船がスクリューで前進するのはこの速度境界層のおかげである。
性質の異なる流体同志の接触面にも境界層が形成される。寒流と暖流の潮目や、気団の衝突による気象前線は地球の自然や生命現象に大きな影響を与える。境界層は江戸っ子の尻を守っているだけではない。