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「800字文学館」

「三養訓」

野瀬 隆平

 広い庭園の中を案内されるままに進み、池にかかる石橋を渡ったところで、やっと離れ家に着いた。離れといっても、堂々とした一軒家である。
 玄関を上がると、正面に造られた坪庭が目に飛び込んでくる。畳敷きの廊下を進み、十畳ほどもある広い次の間を通り過ぎて、立派なしつらえの客間にたどり着いた。畳の数をかぞえたら十四畳だった。
 離れの中には専用の浴室もあり、四、五人は一緒に浸かれるほどの大きな湯船には温泉があふれている。

 ここは、伊豆長岡にある旅館。三菱財閥の生みの親、岩崎弥太郎の長男、久弥の別邸として建てられたものを改装した「三養荘」である。前々から、この旅館には泊まってみたいと思っていたが、やっと実現し親子三人でやってきたのだ。宿に着いてからの応対も含め、すべてが期待にたがわず申し分ない。
 部屋で供される食事は、離れなので遠く本館の厨房から運ばれてくる。料理が冷めてしまうのではないかと心配していたが、それは杞憂だった。離れに専用の水屋がありそこで温め、整え直してから食卓に並べられる。
 味は勿論のこと、盛られている器がまた素晴らしい。仲居さんの説明によると、この器は離れ専用に水屋に置かれているもので、その中から、料理にふさわしいものを選んで使っているとのこと。

 ところで、この三養荘という名の由来は、岩崎家が家訓としていた中国、宋代の詩人である蘇東坡(そとうば)が唱えた三養訓にある。それは、
  安分以養神 (分をわきまえて、精神を安定させること)
  寛胃以養気 (胃を楽にして、心身の元気を養うこと)
  省費以養財 (無駄遣いをやめて、財産を作ること)
である。成るほど、この家訓をしっかりと守り財閥を築き上げたのだ。

 満たされた気持ちで宿をあとにしたのであるが、はたと気が付いた。分不相応な宿に二泊もし、旨いものを腹いっぱい食べ、散財した自分は、まさにこの三つの教訓に、ことごとく反してしまったではないか。

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