仏教と私 ~釈迦も達磨も猫も杓子も~
私が仏教とりわけインド仏教に関心を持ちはじめたのは七十歳になったのがきっかけである。今日のような長寿社会にあっては、まわりを見ても多くの先輩諸氏がかくしゃくとして活躍しておられるので古稀といってもたいして珍しい話ではない。しかしあらためて考えてみれば、人生の最終段階に足を踏み入れたという事実はまぎれもないことなのである。突然余命いくばくもないと宣告される可能性もある。そうなれば確実に自分の死と向き合うことを余儀なくされる。
生まれては死ぬるなりけりおしなべて 釈迦も達磨も猫も杓子も 一休宗純
仏教は、人間存在を無常なものとしてとらえる。すべてのものは今のままでずっとあり続ける不変の存在ではなく絶えず変化するもの、常ではない、つまり無常なものなのである。生きとし生けるものは必ず死ぬという誰でも知っている事実を、自ら認識して自ら悟りの道をひらくのが仏教のめざすところである。他力本願という考えもなくはないが、基本的に仏教は神のような絶対者による救済ではなく、自己自身の中に救済の原理をもつ思想といわれる。それが仏教の大きな特徴であり、宗教でありながら哲学的な面を色濃くもっている理由のように私には思える。
紀元前五世紀にインドで生まれた仏教は中国を経て千年後に日本に伝わった。以来千五百年、仏教は日本的な土壌の中で発展し定着した。そして日本文化や日本人の精神構造にまで深く影響を与えてきた。一方で、日本に仏教が入ってきて変わったのは日本人ではなく仏教の方だと揶揄されるほど日本的に変質しているともいわれる。
ブッダ・ゴータマが生み出した仏教とはいったいどんな思想だったのだろうか。仏教をインド仏教の源流に遡って勉強したいと思った。残された人生の限りある時間の中でいかほどのものを汲みとれるかは甚だ心もとないが、インドで生まれた仏教思想とその後の変遷の歴史を学ぶことを余生のささやかななぐさみにしようと考えている次第である。