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「800字文学館」

ゴキブリ考

内藤 真理子

 トイレの戸を開けたら、側面の白い壁をゴキブリが走りあがった。
 あわてて戸を閉めた。何処から入ったのだろう。最近ゴキブリなど見たこともなかったので、錆びついたスプレー式のゴキブリ退治缶は捨てたばかりだ。そういえば、台所洗剤をかければ皮膚呼吸が出来なくなり、一巻の終わり!と聞いたことがある。
 早速、台所に走り、洗剤を持ってトイレに入り、戸を閉めた。
 何処にいるのだ、と見れば、正面の手洗い槽の脇から下に逃げるところだった。狙いを定めて、洗剤をピューッと飛ばす。
「しまった! はずれた」と思う内に、見失ってしまった。
 私は息を止めてしゃがみこみ、顔を床につけんばかりにして見上げると、便座の丸くふくらんだ下のあたりに、ひっそりと気配を消して張り付いている。
 こちらも緊張しているが、敵も息を殺してでもいるように、じっと止まっている。こげ茶色の地に目立たない縦じまの入った堅そうな翅は、それを見ただけで、おぞましい、不潔、人類の敵、としか思えない。そのゴキブリでも、一対一の真剣勝負となると、十羽一からげのものとは違って見えるのが不思議だ。
 顔の横で洗剤の天辺のポッチに指をかけている手に力が入る。失敗すれば私の顔に向かって敵はやみくもに逃げて来るかも知れない。と躊躇していると、どうやら敵はこちらの気配を感じていて、逃げられると踏んだらしい。そろりそろりと陶器の丸く膨らんだ向こう側に動き始めた。
「しめた! もうこちらには来ないだろう」
 ゆっくりと指を動かして洗剤を飛ばした。命中!
 私は急いで身体を起こし、再度の攻撃に備えた。
 案の定、敵は向こうに向かって走り、壁を這い上がり、ポトンと床に落ち、まだよれよれと動いている。動かなくなるのを待って、何重にも折りたたんだ紙でくるみ、ビニール袋に入れて、大捕り物は完了した。
 だが、あのひそやかな動きは何だったのだろう。一寸の虫にも五分の魂ならぬ、頭脳があるというのか、ただ命を守る本能だったのか。

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