読み替えオペラ
今日世界各地で上演されているモーツァルトのオペラは、装置、衣装などほぼ作曲時の姿のまま、時代劇として鑑賞する上演と、舞台を現代に移していつの世も変わらない人間の姿を語る「読み替え」上演の、2種類に分けられる。この10月初めに上演された「東京二期会」によるモーツァルトのオペラ「イドメネオ」は後者だ。
原作の粗筋は以下の通り。
戦いに勝って帰国する船上で嵐に遭ったクレタの王イドメネオは、息子のイダマンテを生贄とする約束をして生還した。王はわが子の犠牲を避けようと苦慮するが、なす術(すべ)もなく、息子は運命を受けいれる決心をする。
イダマンテが殺される寸前、密にイダマンテを恋していた敵国の王女イリアが、身代わりを申し出る。その時、「イリアを后に迎え、イダマンテが新王となれ」との神託が下る。クレタに平安が戻り、一同、愛の勝利を歌って幕となる。
今回、ギリシャ神話の世界を現代の物語に翻訳したのは、過激な演出で注目の新進、ダミアーノ・ミキエレットで、筋立てはこう変わる。
舞台は、無数の軍靴が散らばっている砂浜。
イドメネオは、戦場での悲惨な体験を忘れようとするが叶わない。そこに全身に血糊を塗った二人の男が登場。彼に絡みつき、纏わりついて、背広もTシャツも赤く染まる。この衣装で歌う姿は凄惨極まりない。イドメネオはPTSD(心的外傷後ストレス障害)に陥り、祝いのテーブルをひっくり返し、ベッドの上で苦しんだ末、自死する。
べトナム、中東、ウクライナなど、紛争の絶え間のない今日、演出家は、遠い神話の世界ではなく、現代の「苛酷な戦場から戻った人間」の物語に読み替えているのだ。
このような「読み替え」を、余計な解釈や説明は邪道だ、と嫌うモーツァルティアンは多い。私も独りよがりの前衛は好きでない。が、生贄のむごさ、戦場の残酷さを嘆くイドメネオの叫びは、今の世にまで響いて来て、敗戦体験者である私の胸を激しく揺さぶる。